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小説は思考実験の場である(8月13日)

 東日本大震災の後に、こんなことを心に刻むように考えたことを思いだす。「災後」という言葉が提起されていた。「災後」はいったい、どんな顔をしているのか。それはきっと、太平洋戦争の後としての戦後ではなく、戊辰戦争の後としての、もうひとつの「戦後」になぞらえられることになるにちがいない。そして、わたしは会津の人・柴五郎の『ある明治人の記録』を読み直した。ここから始めるしかない、という覚悟を固めたかったのだ、といまにして思う。
 それから、まだ東北は植民地だったのか、という呟[つぶや]きを書きつけた。そうして、わたしの震災後の日々が始まった。津波に舐[な]め尽くされた海辺の村から町へと、声もなく、ただ訪ね歩きながら、ときおり作家の井上ひさしさんを思わずにはいられなかった。大鎚湾に浮かぶ蓬莱島は『ひょっこりひょうたん島』の舞台のひとつとも言われるが、ほんの小さな島だ。島と陸地を繋[つな]いでいた遊歩道は海中に没していた。井上さんは震災の何年か前に亡くなっている。震災後に井上さんの言葉がほしいと思った人は少なからずいたようだ。むろん、わたしもその一人である。
 ふと気が付いたことがあった。井上さんの『吉里吉里人』が刊行されたのは1981年である。その時期に、『吉里吉里人』のほかにも、東北を舞台とした〈植民地〉と〈独立〉をテーマとする小説が、何冊か刊行されてベストセラーになっていた。なぜ、その時期に、いわば〈独立小説〉が人々の関心を惹[ひ]き付けたのか。理由も背景もよくわからない。気に懸かるが、雲をつかむように茫漠[ぼうばく]としている。その頃の東北に、なにか〈独立〉を求める動きがあったとは、とうてい思えない。
 ただ、どこか思考実験のように、〈植民地〉と〈独立〉に思いを巡らすことへの潜在的な欲望はあったのかもしれない。井上さんの『吉里吉里人』などは、まさに東北の小さな村が〈独立〉を宣言したら、なにが起こるのか。その思考実験であったことは、井上さん自身が明らかに語っていた。あくまで平和的に、いっさいの戦いを回避し、ひたすら知恵と諧謔[かいぎゃく]を凝らして〈独立〉をめざすのであるが、まったく荒唐無稽で、笑いに満ちている。これにたいして、たとえば西村寿行さんの『蒼茫の大地、滅ぶ』などは、暴力的な戦いも辞さず、真っ向から従属を拒むことで破滅へと突き進むことになる。2つの作品はきわめて対照的でありながら、ともに思考実験として〈独立小説〉という仕掛けを選んでいたのではなかったか。
 思えば、子ども向けの作品であったはずの『ひょっこりひょうたん島』が、どこかユートピア的な共同体への志向を秘めていたことは、偶然ではあるまい。たしか、火山の噴火とともに、陸地に架け渡された橋が壊れ、ひょうたん島は漂流を始めたのである。国籍を離脱した、根っこを持たぬデラシネたちが、このアジール(避難所)としての島には集まってきて、物語が幕を開ける。井上ひさしさんを再発見しなければならない。(赤坂憲雄、県立博物館長)

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