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戊辰150年、ツバキに託す願い 島津家当主策探る

 鹿児島市にある島津家別邸の仙巌(せんがん)園の丘に一本のツバキが立つ。丘の向こうに、もうもうと噴煙を上げる桜島が望める。ツバキの傍らには説明書きを記した小さな看板がある。「会津と薩摩は戊辰戦争を敵味方に分かれて戦った。その恩讐(おんしゅう)を離れ、近代日本の礎となった両藩の士風を次代を担う若者たちに伝えていきたい」。看板を設けた会津若松市と鹿児島市の関係者の思いがにじむ。
 ツバキは1997(平成9)年に会津若松市の会津若松西、鹿児島市の鹿児島中央の両ロータリークラブ(RC)が友好クラブを結んだ証しとして2009年に植樹された。
 会津藩の城下町だった会津若松市、片や薩摩藩が置かれた鹿児島市。戊辰戦争では東軍(旧幕府軍)、西軍(新政府軍)の主力として戦火を交えた。東軍、西軍の雄藩の拠点だった両市のRCが手を携えるまでには紆余(うよ)曲折があった。

◆深い溝
 鹿児島側で友好クラブの締結に大きな役割を果たしたのは、薩摩藩主を務めた島津家の32代当主に当たる島津修久(のぶひさ)さん(80)=島津興業会長、照国神社宮司=だった。島津さんの胸につかえていた言葉が会津側との友好親善の実現に向かわせた。
 東北、特に会津の人に会ったら出身地は告げない方が良い-。
 友好クラブ締結の話が持ち上がった20年ほど前、鹿児島中央RCで同じ会員だった男性医師から聞いたエピソードに胸が痛んだ。鹿児島市出身の男性医師は仙台市にある東北大医学部で学んだ。鹿児島市出身と知った同級生から忠告されたという。
 「戊辰戦争で戦った因縁が今なお消えていない。薩摩、会津がともに笑顔で交流できる環境をつくりたい」。島津さんは男性医師とともに鹿児島中央RCの創立20周年をきっかけに会津側との親交を深める方策を探り始めた。
 本県のRCと交流を深めたいと知己を頼って、伝えた。「可能ならば、会津地方のRCがいい」。そう申し添えた。
 だが、半年近くたっても返答は届かない。しびれを切らして問い合わせると、賛同する声がないという。「予想はしていたが、薩摩と会津の間にある溝の深さを改めて実感した」。鹿児島中央RCの会員から落胆の声が漏れた。

◆機運
 「薩摩側からの申し入れは大きな転機になる。ぜひ、成功させたい」。島津さんらの計画に暗雲が漂い始めたころ、話をまとめようとする機運が会津側に出ていた。

 東軍(旧幕府軍)、西軍(新政府軍)がやいばを交えた戊辰戦争。勝者と敗者の間には容易に拭い去れないわだかまりが残った。時は下り、心の雪解けを目指す人たちの歩みが力強さを増している。もつれた糸を解きほぐすようにゆっくり、着実に。

■島津家
 鎌倉時代の初めに南九州最大の荘園「島津の荘」の下司職(地頭職)となった。15代貴久が南九州をほぼ統一、16代義久は九州のほとんどを平定した。1600(慶長5)年の関ケ原の戦い後、徳川幕府により薩摩藩主として南九州一帯を治める外様大名(77万石)となった。幕末期には28代斉彬(なりあきら)が富国強兵策を推進。藩士の西郷隆盛や大久保利通らは明治維新の中核を担った。1869(明治2)年の版籍奉還で約700年に及ぶ島津氏による南九州統治が終わった。

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仙巌園にある会津と薩摩友好のツバキ
仙巌園にある会津と薩摩友好のツバキ
会津との交流の思い出などを語る島津修久さん=鹿児島市・仙巌園内の尚古集成館
会津との交流の思い出などを語る島津修久さん=鹿児島市・仙巌園内の尚古集成館

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