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ミュージアムは都市の顔だ(10月28日)

 思いがけず、ミュージアムの運営に関わるようになってから、何年になるのか。わたしはまったくの素人にすぎず、ゆるやかに時間をかけて、ミュージアムとは何かを知ることになった。ミュージアム、つまり博物館や美術館はいま、その存在意義や役割を厳しく問われている。むろん、福島県立博物館も例外ではない。
 今年は偶然が重なり、海外のいくつかの都市のミュージアムを見て歩く機会に恵まれた。わたしはほとんど海外に出ることがない。日本語しか喋[しゃべ]れないから、赤子同然で、とても疲れる。移動すること、食べること、くつろぐこと、どれもこれも苦難の連続である。一日に何とかひとつのミュージアムを訪ねることを義務のようにして、とにかく毎日、うろうろと雑踏のなかを歩きまわった。お蔭[かげ]で、ミュージアムとは何者なのか、たっぷり考えることができた。
 やはり、印象的であったのは、どこでも博物館と美術館という垣根が低い、ときには存在しないことだ。この区別はそもそも、きわめて日本的な、明治以降に西洋文化が移入されるなかに形成された特殊事情にすぎない。フランスのあるミュージアムの「金」をテーマとする特別展では、古代の細工や装飾から中世の絵画、現代アートにいたるまで、金をまとったモノや作品が当たり前の顔つきで混在しながら展示されていた。いくらか唐突な印象もあったが、むしろそれは日本のミュージアムの常識に縛られているがゆえであったか。
 展示にはどれも、物語とメッセージがさりげなく埋めこまれている。パリの自然史博物館では、群れなす剥製[はくせい]のライオンたちは、ほかの動物たちを狩人の眼つきで眺めていた。そこは都市のなかのアフリカの草原だった。別のあるフロアーは、「人間が絶滅に追いこんだ野生動物たち」というテーマで構成されており、興味深いものだった。標本や剥製が、研究者にとってだけ意味があるような形で陳列されているわけではない。物語がそこかしこで、生き生きとうごめいている。
 どこにも子どもたちの姿がある。まだ四、五歳の保育園児から大学生あたりまで、五、六人から二十人程度のグループが多い。ピカソの「ゲルニカ」の前で、モネの「睡蓮[すいれん]」に囲まれて、あるいは、野生動物の剥製の群れのかたわらで、さまざまな民族の肖像写真を眺めながら、先生や学芸員の説明に耳を傾けている。ミュージアムは日常的な学びにきちんと組み込まれている。「ゲルニカ」という難解なはずの巨大な絵画について、七、八歳の子どもらが、どんな解説を受けているのか。関心を覚えたが、残念ながら言葉がわからない。
 どこでもミュージアムは愛され、地域の誇りになっている。小さなモネの美術館が見つからず、困って道を尋ねると、初老の女性がわざわざ案内してくれた。大切な宝物を紹介できる喜びのようなものが感じられて、こちらも嬉[うれ]しくなった。ミュージアムは都市の顔として愛されている。そうして文化と観光を繋[つな]ぐ広場となるのだ、と思う。(赤坂憲雄 県立博物館長)

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