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伊達と相馬と岩城(11月18日)

 今から五百年ほど前、戦国時代の話になる。大永四(一五二四)年、相馬[そうま]の領主、顕胤[あきたね]は伊達[だて]の領主、稙宗[たねむね]から、あることを頼まれた。それは「岩城の領主、重隆[しげたか]に娘がいると聞いた。その娘を我が子、晴宗[はるむね]の嫁に迎えたい。ついては仲介の労[ろう]をとってもらいたい」というものだった。
 顕胤の家臣のなかには「めでたい話ではあるが、しくじれば、災いのもとになる」と、伊達と岩城の間に立ち、嫁入り話を進めることに難色を示す者もいた。しかし、稙宗は顕胤の妻の父でもあり、頼みを断ることはできなかった。顕胤は早速、岩城に使者を送った。
 伊達への嫁入り話に、重隆は「ありがたい」と喜び、すぐに同意した。しかし、その後、程なくして、重隆は「娘の嫁入り先は遠方の伊達よりも、近隣の白河の方がいい」と翻意[ほんい]し、そのための準備に取りかかった。
 「重隆、翻意」の噂は顕胤の耳にも達した。「重隆が約束を破るはずはない」と、顕胤は噂を信じなかったが、家臣から「今時[いまどき]は我[われ]がちの浮世にて、今日は今日、明日は明日とか分[わかち]はべれば、いかなる誓約も頼みがたくこそはべれ」(『奥相茶話記[おうそうさわき]』)、つまり、この頃は、皆、自分の利益や都合だけを考え、今日は今日、明日は明日と、その日によって考えを変え、約束を破る御時世だとの忠告を受け、噂の真偽を確かめるため、密偵を差し向けた。その結果、重隆の翻意が事実であることが判明した。
 顕胤は激怒した。「岩城の息女を白川へ遣[つかわ]しては、我、生[いき]て相馬の主[あるじ]とはなられまじくと存[ぞんず]れば、一合戦[ひとがっせん]して、重隆の首を伊達へ送るか、相馬の家の滅亡となるか、この二つの外[ほか]はなし」(同前)と覚悟を決め、重隆に合戦を挑むことになった。
 顕胤は領内にいくさの触れを出し、兵を集め、岩城に向け、出陣、富岡の七里が原で岩城の軍勢二千と戦った。しかし、敗れてしまった。
 顕胤は一旦、自領に兵を引き、味方の立て直しを図り、再戦を挑んだ。そして、両軍は広野でぶつかった。激戦の末、顕胤が勝利を手にした。
 その後、顕胤は一気に南下し、岩城領内に深く攻め入った。四倉[よつくら]の城を落とし、次に仁井田[にいだ]の城に迫った。ここまで来れば、重隆の本拠、白土[しらど]の城は目と鼻の先だ。
 この事態に、重隆は和議を申し入れた。恵日寺[えにちじ]と薬王寺[やくおうじ]の僧を使者に立て、「約束を破り、申し訳なかった。娘は近いうちに伊達に嫁がせる。ここはひとまず、兵を引いてくれ」と伝えた。これに対し、顕胤は「息女の駕輿[かよ]を先に立て、可帰陣[きじんすべし]」(同前)、重隆の娘を今すぐ、受け取りたい。そうでなければ、兵は引かないと強く応じた。結局、顕胤のいい分が通り、四倉の大夫[たゆう]坂[ざか]で重隆の娘を受け取り、顕胤は兵を引いた。その後、重隆の娘は伊達に嫁いだ。
 因[ちな]みに、この時、新郎の晴宗は数え年六歳、一方、新婦、重隆の娘は数え年三歳ぐらい。
 虚々実々の駆け引き、そして、合戦と、いかにも戦国の世の嫁入り話といった感じだ。
(夏井芳徳、いわき明星大学客員教授)

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