県内ニュース

主要

  • Check

長岡藩 河井継之助 新型銃器で洋式化 北越の小藩けん引

 長岡藩は現在の新潟県長岡市を中心に治めた。幕末期に藩の家老と軍事総監を務めたのが河井継之助だ。先取的で英知に富んだ“北越の英雄”を慕い、市中心部にある河井継之助記念館を訪れる人は絶えない。
 記念館の中央にある大型機関銃「ガトリング砲」の複製が来館者の目を引く。戊辰戦争時に長岡藩が使用した。二百発以上を一分間に連射し、戊辰戦争で西軍(新政府軍)を震撼(しんかん)させた。
 藩がガトリング砲を入手した経緯は、鋭敏な感覚で郷土の行く末を案じた河井の考えを色濃く反映している。

■柔軟
 米国製で幕末に三門が輸入された。このうちの二門を石高七万四千石の長岡藩が一八六八(慶応四)年に購入した。大藩とは言い難い長岡藩はなぜ、最新鋭の武器を手にしたのか。「幕末期の武士にあって、珍しく柔軟な思考で行動した河井の存在が大きい」。記念館の稲川明雄館長(74)は指摘する。因習や封建思想が根強かった武家に生まれながらも時流を読み解き、合理性を重んじていたという。
 長野市にあった松代藩の出身で海防戦略を編む幕府海防掛(がかり)顧問を務めた佐久間象山の塾に一八五二(嘉永五)年ごろから入るなどして見聞を広めた。長岡藩の藩政に関与するようになると、商人の独占特権の廃止や藩士の俸禄改正、産業振興など改革を実行に移す。言動を支えたのは合理性とともに公平性だった。次々と打った変革によって二十三万両にも上る藩の負債を完済し、新たに確保した十一万両を軍備増強に回した。

■一人一丁
 軍事分野でも先見の明を生かした。富国強兵を掲げ、装備や戦術の洋式化を推し進めた。鳥羽・伏見の戦いの前年に当たる一八六七年には、藩兵一人につき洋式銃一丁を持たせた。
 戊辰戦争開戦後、徳川家に強い戦意がないとみると、旧幕府側と新政府側を取り持つべく藩の「独立・中立」を目指す。そのためには強大な軍事力が不可欠-というのが河井の持論だった。江戸藩邸を売却し、二門で一万両、今に換算して約一億円ともいわれる巨費を投じてガトリング砲を購入した。
 「足跡をひもとくと、ある会津藩士との交流が、後の北越戦争で薩長を苦しめた河井に大きく影響していることがうかがえる」。稲川館長は幕末の会津藩で幕府や諸藩との交渉や折衝を担う公用方を務めた秋月悌次郎の名を挙げた。

※長岡藩と戊辰戦争 長岡藩周辺で繰り広げられた戦いを指し、「北越戦争」と称される。長州、薩摩両藩を主力とする西軍(新政府軍)に対し、長岡藩を中心に会津、米沢、桑名(現三重県)各藩などによる東軍(旧幕府軍)が対峙(たいじ)した。最終的に長岡藩主らは新潟、福島県境の八十里峠を経て会津に敗走した。だが、戦死者は東軍勢約400人に対し、西軍は1千人超とされ、戦力で劣勢に立たされた東軍勢は善戦した。

カテゴリー:主要

ガトリング砲(複製)を前に河井の先見性を語る稲川館長=長岡市・河井継之助記念館
ガトリング砲(複製)を前に河井の先見性を語る稲川館長=長岡市・河井継之助記念館

主要

>>一覧