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子ども図書館を探している(12月30日)

 生まれてはじめて買ってもらった本のことは、よく覚えている。土曜日になると、学校の図書室から借りてきた本を読み耽[ふけ]った。しかし、わたしがいま思い出しているのは、そうした図書カードが挿してある本ではない。図書館の蔵書印が押されていない、自分だけの本だ。わが家は貧しかったから、六人兄弟の末っ子のわたしに本を買い与える余裕など、まるでなかった。貯[た]めていたお年玉で買ったのか。さだかな記憶はない。ともあれ、少年にとっては途方もない大事件だった。
 『ロビンソン漂流記』。ロビンソン・クルーソーが絶海の無人島に漂着し、そこで一人生き抜く、いわばサバイバルの物語である。夢中になって読んだ。残りページが少なくなるにつれて、読む速度が遅くなった。物語には終わりがあることを知らされた。それはきっと、とても大切な体験であった。
 影響は絶大だった。寝ても覚めても、無人島のことばかり、いつか行くはずの探検のことばかり考えていた。大きくなったら何になりたいか、と問われれば、「探検家だよ」と答えた。武蔵野の雑木林や原っぱが、つかの間、無人島になった。台風一過の雑木林は、まるで南の島の密林だった。倒れた樹々が折り重なり、その下を探検して歩いた。いまも記憶は鮮やかだ。
 寝つきが悪い子どもだった。眠りに落ちるまでは、かならず空想旅行に出かけた。なかでも大好きだったのがむろん、ロビンソン・クルーソーが何十年も暮らした、あの無人島への冒険の旅だった。そのために持参する、島で生き延びるための道具について、飽きることもなく空想した。空想にはとどまらず、救急道具(のオモチャ)を作り、机のひきだしにしまっておいた。遠足にはむろん、リュックの底に忍ばせていった。
 わたしはきっと、詩人の谷川雁さんが語っていた、木も小川も動物も、怪物だって戯れる相手にしてしまう「幻想性の時代」(『意識の海のものがたりへ』)を生きていたのだ、と思う。たしか十歳と、谷川さんが指定した、「人生の二番目の黄金期」だ。たぶん、『ロビンソン漂流記』はそんな黄金期の終わりにやって来た、贈り物だったのである。わたしはそのとき、小学四年生だった。
 わたしがのちに、旅好きになった、その原点にはあの本があるのかもしれない。探検家にはなれなかった代わりに、民俗学者になって、村から村へと聞き書きの旅を重ねた。それもまた、未知なる世界へと分け入ってゆく、探検のようなものであった。幼い頃から、無人島のような、ここではない・どこかに憧れ続けてきたのだと思う。いまでも紀行文を読むのが好きだ。三つ子の魂百までか。
 どれほど世の中が変わっても、子どもは本に囲まれて育ってほしい。それが未来をつくる糧になる。だから、子どもたちのための図書館が必要だ。子どもたちの未来だけに眼を凝らし続ければいい。それだけがこの混沌[こんとん]とした時代のなかで、信頼できる羅針盤だ、とわたしは思う。(赤坂憲雄 県立博物館長)

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