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磐城平城-歴史を映す鏡(1月20日)

 戦国大名の岩城氏は、現在のいわき市を中心に、双葉郡の南部や茨城県の北部などを支配していた。しかし、徳川家康の上杉景勝征伐に加わらなかったことなどから、関ケ原の戦いの後の慶長七(一六〇二)年、全ての所領を召し上げられ、江戸の浅草で浪人暮らしをすることになった。
 一方、家康は関ケ原の戦いに勝ち、天下をほぼ手中にしたが、まだ、争いの火種は残っていた。西の大坂城には豊臣秀頼がおり、それに繋[つな]がる大名たちがいた。また、奥州の仙台には伊達政宗がいた。
 このような状況のなか、政宗の動きを封じ、江戸の守りを固めるため、江戸と仙台の中程[ほど]、いわきの地に磐城平城が築かれることになった。
 慶長七年、新たに磐城平藩主となった鳥居忠政が、いわきに入り、直ちに城づくりに取りかかった。この時、忠政に求められたのは一日も早い城の完成だった。しかし、土手の工事が難航した。本丸の北西、後沢を流れる川に土手を築き、濠[ほり]として用いようとしたのだが、工事がうまくいかなかった。大雨で決壊してしまうということが三度も繰り返された。
 これには、さすがの忠政も万事休す、手立てが尽き果て、ついには人柱を立てることになった。
 磐城平の東、菅波村[すがなみむら]に暮らす丹後という九十五歳の老人が人柱に立つことになった。丹後は「齢[よわい]、已[すで]ニ九十五歳、娑婆[しゃば]ニ望ミナキ身ニテ候ヘバ、臨終正念[りんじゅうしょうねん]ニ人柱ニ立[たち]テ参[さん]ズベシ」(神林復所『磐城騒動記』)と意を決し、人柱に立った。
 これによって、後沢の土手工事は成就し、磐城平城が完成した。
 この後、忠政は元和[げんな]八(一六二二)年、山形に栄転した。
 それから四十年後の寛文二(一六六二)年七月、俳諧談林派[だんりんは]の大宗匠、西山宗因[にしやまそういん]が磐城平城を訪れた。
 その時の様子を、宗因は「文月[ふづき]の廿日[はつか]余りには、陸奥[むつ]の勿来[なこそ]の関を越えて、何某[なにがし]の城下に至[いた]る。此地[このち]、西北に巡りて、皆[みな]、山也[やまなり]。山、健[すく]よかならずして、茂林青々[もりんせいせい]たり。南に川有[あり]、日夜[にちや]、東流して、蒼海[そうかい]に臨[のぞ]めば、往来万里の船を繋ぐ」(『奥州紀行』)と記している。
 この後、江戸の文化は大きく花開き、元禄[げんろく]の世を迎えるが、当時の磐城平藩主、内藤忠興[ただおき]、そして、その子、義概[よしむね](風虎[ふうこ])、さらには義概の子、義英(露沾[ろせん])は北村季吟や西山宗因、松尾芭蕉などと交流を持ち、元禄文化の担い手となった。
 そして、時代が移り、幕末の戊辰戦争の際には、磐城平城に奥羽越列藩同盟の拠点が置かれ、磐城平藩や泉藩、湯長谷[ゆながや]藩、仙台藩、相馬藩、米沢藩などが新政府軍と戦った。しかし、慶応四(一八六八)年七月十三日の深夜、十六時間に及ぶ激戦の末、磐城平城は落城した。
 こうしてみると、戦国から江戸時代にかけての激動や元禄期の文化の隆盛、さらには幕末の戊辰戦争と、磐城平城は時代の移り変わりを深く、その身に刻み、背負ってきたことがわかる。
 いってみれば、磐城平城は、この間の日本や地域の歴史を如実、かつ、鮮明に映し出す一枚の鏡のようだ。(夏井芳徳、いわき明星大学客員教授)

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