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小林先生に直接教えを受けた土橋さん。「先生はここにあった門まで出て見送ってくれた」と記憶をたどる
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真っ白な雪が、母屋を、竹林を、石碑を覆っても、六十五年前の恩師の励ましは鮮やかに脳裏によみがえる。「あのイチョウの木のそばに門がありました。小林先生はそこまで見送りに出てくれて、せんべつを私の手に握らせました」と。
猪苗代町の亀ケ城跡の東側。そこに野口英世博士の恩師小林栄先生の家が残る。町内でクリーニング業「白成舎」を営む土橋成記さん(79)は、小林先生が大正五年に開いた私立学校「猪苗代日新館」で昭和十二年四月から二年間学んだ。その時、十三、十四歳。小林先生から直接教えを受けた数少ない存命の卒業生の一人だ。
進学を助言
―会津藩士の子として、猪苗代に生を受けた小林栄は福島師範を首席で卒業。福島町(現在の福島市)に赴任するよう求められたが「後進を育てたい」という思いから郷里に戻った。明治二十二年、猪苗代高等小学校の首席訓導として巡回卒業試験で三ツ和小を訪れた時、「俊敏な風貌と、左手の不自由な一人の少年」(小林栄 育英回顧八十年)として目に留まったのが、のちに野口英世博士となる清作だった。栄は母シカと清作を自宅へ呼び、高小への進学を強く勧めた。卒業前、清作が不自由な左手の悩みと勉学への熱意を切々と吐露した作文に感動した栄は、教員や生徒に呼び掛け、左手の手術のための費用を集めた―
日新館の名前は会津の藩校の名から。博士は師の恩に報いるため支援し、博士揮ごうによる学校名の額が飾られた。建学の精神は「一、人間 二、健康 三、学問」。農業、英語、国語、数学などを、中学に進まず地元に残った師弟を集めて教えた。「むしろ敷きで冬は寒いこと、寒いこと。四角い火鉢で大きな鉄瓶がチンチン言っていた」という。
土橋さんが学んだ当時、すでに小林先生は高齢で、温厚そのもの。博士の生い立ちを度々語り「おまえたちは両手が満足。博士は不自由でも頑張って勉強し、米国に行ったんだぞ」と、努力と忍耐の大切さを訴えた。
土橋さんは卒業の年の六月、京都に染め物の修業に行く前、あいさつのため亀ケ城前の小林先生の家を訪ねた。先生は門の前で土橋さんの手を握り締め「職人でもなんでも親方になれ。努力すれば、上に立つ人間になれる」と励ました。
小林先生が亡くなった知らせが京都の土橋さんのもとに届いたのは、翌昭和十五年の七月のこと。八十年の生涯だった。
わが子同然に
―実子に恵まれなかった栄と妻シュンにとって英世はわが子のような存在だった。英世は手紙などで栄を「父」、シュンを「母」、実母のシカを「城母(じょうぼ)=三城潟の母」と呼んでいた。シュンの看病のための帰郷の際、英世は坪内逍遥の小説「当世書生気質」を読み、将来を嘱望されながら自堕落な暮らしに流されていく主人公「野々口精作」と自分を重ねてショックを受けた。改名の相談を受けた栄は、小林家に代々伝わる「英」の字をとり、「世」に名を成す人になれという願いを込めて「英世」の名を与えた。シュンは英世の渡米に際し、養蚕による蓄えをそっくり与えて励ました―
土橋さんは京友禅の染め物を学んでいたが、徴用で魚雷造りに従事。さらに召集で中国に渡った。終戦でなんとか生きて猪苗代に戻り、昭和二十六年、土地では初めてのドライクリーニングの店を開き、事業を広げていった。
今、土橋さんの下で働く人は約百人。昭和六十三年からは授産施設「さぎそうの家」を造り、障害者が地元で働ける場を設けた。「当時、町には養護学校を出た子どもたちの行き場がなかった。親たちもかわいそうで、頼まれて…。『オレがやんなんねな』と思った」と当時を語る。郷土のため何かの役に立とうとする姿に小林先生の教えの系譜が見える。
清作少年と母シカが進学を相談に訪ねた小林先生の家には今、養女の孫に当たる小林興英さん(野口英世記念館事務長)が住む。幾度も改装されてはいるものの骨組みは昔のまま。会津藩士の血筋を受けた一徹の教育者の魂が、片隅に宿る。