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渡辺さんは「遠き落日」を執筆するにあたり、野口の足跡をたどって世界各地を歩いた。野口がフレキスナー博士を頼って降り立ったのがフィラデルフィア駅だった
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―渡辺さんはもともと医師でいらっしゃいます。どうして野口を小説として取り上げる気持ちになったのか、教えてください。
「大学で細菌学を学ぶと、医学書には日本の医学者で一番有名なはずの『野口』の名前がまったく出てこない。一時は世界的にも高名な医学者だったけれど、その研究成果は死後、ほとんど否定されてしまった。しかし、偉人としてこれだけ名前が残っている。そこが不思議でちょっと調べてみると面白く、ユニークな人物と分かった。いつか調べて書きたいと思っていて、作家になって少し自信ができてから書き始めたんです」
―野口という人物像をどのように感じていますか。
「大変チャーミングでエネルギッシュ。そしてファイターですね。調べれば調べるほど人間臭くて、生々しくて、とても好きになった。小説っていうのはきれいごとだけの人物を書くものではない。悪も善も両面そろえたというか、見える人でないと面白くない。確かに彼は人に迷惑も掛けたけど、それ以上に頑張って、懸命に生きた。いわば『狂熱の人』ですね」
―野口の学者としての業績をどうお考えですか。
「野口は細菌学の研究が一般細菌からウイルスに移る谷間の時代に生きた、いわば悲劇の学者です。ウイルスの存在は当時まだおぼろげでしかなく、彼はウイルスという概念が分からないまま死んだ。この医学の進歩する過程に生じた大きな谷間に野口が落ちて、くぼみを埋めたから、今日のウイルス学があるとも言える。事実、アメリカではそのように高く評価されています」
―黄熱病もウイルスでした。
「ガーナに行くころは自分の学説を批判されボロボロの状態だった。なんとか挽回(ばんかい)しようとしたができなかった。僕はガーナの取材で、野口から実験動物の世話を任されていた人から話を聞きました。『野口の研究室にはいつも明かりがついていた。その姿に感動した』と言っていた。野口はその時代の顕微鏡で見えるはずのないウイルスを必死に見ようとしていた。そして自身でワクチンを開発したにもかかわらず、黄熱病で死んでしまった」
―千円札に登場することで野口にあらためて注目が集まります。現代人が野口の生きざまに見るべきことは何だと思われますか。
「彼は貧しさやハンディキャップをバネにして狂ったように学び、そして遊んだ。勉強ばかりでなく吐き出す場面もあったがプラス面の方が圧倒的に大きかった。そして世界の医学会で初めて認められたインターナショナルな日本人だった」
―野口のようながむしゃらな生き方は今、時代遅れでしょうか。
「そんなことはない。企業でも学問でも、あらゆる芸術の世界でもトップを行く人間はある意味で狂っている。そういう狂気は不可欠。俗な優しさなんかからは何も生まれない。本当にものを創造するなら、狂ってないとできない。ただ、今はそれがはやらないというか、表に見えにくい時代というだけで」
―野口のような人物が生まれた時代背景をどのようにとらえていらっしゃいますか。
「維新のあと賊軍だった会津からは、官界や政界には出ていけなかった。だから実業や学者の世界で頑張ろうとする人を応援する空気が強かった。それに乗って、野口はさまざまなハンディを抱え、あらゆるところで虐げられながら頑張った。そんな環境では、犯罪者になった人間だって掃いて捨てるほどいたはず。でも、野口はその悔しさをバネに変えたところが素晴らしい。粘り強く、したたかに生きた」
―野口の周りの多くの人が彼の人間性に引き寄せられています。
「どうしようもないところもあるけれど、それの倍以上に愛すべき人でもあった。ほっておけない『ひたすらな一途さ』というか…。いい人というような単純な魅力ではない。女性でもそうだが『悪いんだけれどいい女』というのが一番困るよね。恩師の血脇守之助が自分の息子に『男にはほれるな』と言った気持ちが分かるね」
―野口の生き方は今、どのように伝えられるべきだと思いますか。
「偉人ではなく僕らと同じレベルの人間、地べたを歩いていた人なんだと伝えてほしい。野口は帰国した時、自分が死ぬほど嫌っていた東大の学者がホテルにあいさつに来たことに小躍りして喜んだ。私は野口のそんな単純で正直な上昇思考を評価したい。本当は飛び上がりたいのに格好つけているやつよりずっといい。『こういうんでいいんだよ』と、分かってもらいたいね」