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安積高旧本館前で、朝河の思想を次代に伝える努力を誓う渡辺さん
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二本松市に本部を置く進学塾東日本学院グループ代表で、朝河貫一博士二本松顕彰協議会理事を務める渡辺剛さん(50)にとって、高校のころ、朝河のイメージは漠然としたものだった。「朝河が取り組んだのは、中世比較法制史という地味な分野。その顕彰が母校である早稲田大や地元二本松で本格化したのもわずか十数年前のこと。野口英世のように存命中から伝記が記されるような存在ではありませんでした。私自身、二本松市出身の偉い学者とは知っていたけれど、人間像は分からなかった」
しかし、その人間像は渡辺さんが大学を卒業して地元に帰り、英語塾を開いたころから渡辺さんの中で大きく膨らみ始める。所属した二本松青年会議所で「二本松独自の事業を」と取り組んだのが、朝河の顕彰だった。「朝河の生涯を紹介する英文をまとめ、中学生の弁論大会を開きました。優秀者を朝河ゆかりの米国ダートマス大、エール大に派遣した事業は二本松市の市民の翼の事業として引き継がれています」と振り返る。
孤立を警告
―朝河は野口より三歳年上。二本松藩の下級武士の長男として生まれた。論語の「吾ガ道、一ヲ以テ之ヲ貫ク」から貫一と名付けられたという。英才ぶりは「朝河天神」とも称され、福島尋常中学校(現安積高)、東京専門学校(現早稲田大)を首席で卒業。野口に先立つこと五年前の明治二十八(一八九五)年十二月、米国に旅立った。生涯の支援者となるウィリアム・タッカー学長のもとニューハンプシャー州ハノーバーのダートマス大で学び始める。同大講師時代、朝河は日露戦争における日本の正当性を米国内で訴え、ポーツマスで行われた日露講和会議では、世界情勢の的確な分析に基づく朝河の意見が日本の交渉案の下敷きとなった。しかし、その後、日本でナショナリズムが台頭し強権的なアジア外交を展開していくと「日本の禍機(かき)」を著して、日本の孤立を予言し、警告した―
今日の資料に残る野口と朝河の接点はごくわずか。安積中で朝河の後輩にあたる阿部善雄元東大教授(故人)が書いた朝河の伝記「最後の日本人」には、身を削るような研究のさなか、二人の福島人が過ごした甘美な一夜の様子が記されている。野口は大正十(一九二一)年六月、エール大学の新総長の就任式で助教授だった朝河と会う。古里の訛(なま)りで話すのがよほど楽しかったのだろう。「朝河はウエーターに十ドル札一枚でよかったのを、間違えて二枚渡したほどだった」という。この一夜のことに触れた野口の手紙が残されている。
渡辺さんは、二人の心の底流には戊辰戦争での会津、二本松の敗戦が刻まれていたという。「賊軍としての不遇は、薩長土肥より時代の変化を知る情報に乏しかったから。朝河はその禍根を父親から聞かされていたでしょう。明治となって『中央』で生きることが難しいと感じた時、英語は目的ではなく世界に羽ばたく手段でした。辞書を食べたという話は、五臓六腑(ごぞうろっぷ)に入れるぐらいの執念で学んだということでしょう」と想像する。帝大出が幅を利かせる日本ではなく、米国に飛躍の場を求めた野口と通じる話だ。
祖国憂える
―野口が昭和三(一九二八)年、五十一歳の若さで亡くなったのに対し、朝河は日米終戦後の昭和二十三(一九四八)年まで生きた。中国侵略、国際連盟脱退と孤立の道を進む祖国を憂えた朝河は、日米開戦だけは何とか避けたいと、金子堅太郎、鳩山一郎といった政治家、識者に手紙で訴える一方、ルーズベルト大統領が天皇に親書を送る運動も進めた。親書は東京に届いた。しかし、それは昭和十六(一九四一)年十二月八日の真珠湾攻撃のあとだった―
塾の経営者として多くの少年少女と向き合う中、渡辺さんが願うのは「本当の意味での国際人になってほしい」ということ。「野口や朝河は、単眼的思考しかできなかった東北の幕末の反省から複眼的な物の見方を身に付けました。朝河は歴史家としての複眼的な思考ができたから、日本の破滅を予期し、日米開戦を阻止しようと努力しました。子どもたちには過去の出来事から物事を見る目を養い、未来に生かしてほしい」と考えている。
朝河の伝記は乏しい。渡辺さんは小中学生が読める伝記を出したいと考えている。渡辺さん自身が、野口や朝河にさまざまなきっかけや支援を与えた師のような存在となる日が来るかもしれない。