
《ITの時代が来る―》
会津大の開学1年前の平成4年。会津高の新聞部だった本田勝之助(36)は初代学長となる国井利泰(東大名誉教授)にインタビューした。未来を見据えた国井の話に衝撃を受けた。
早稲田大政治経済学部卒業後、会津若松市内にIT企業をつくった。時流に乗り、東京・六本木にも事務所を設けるなど順調だった。
新進気鋭の起業家の周りには新しい情報が次々と飛び交う。知人から宮城でいい有機肥料が作られているという話を聞いた。「本田さん、会津の人でしょ。米どころだよね」
会津若松市の実家は大正4年から続く青果問屋を営む。父、勝美(63)から「家業を継げ」と言われたことはなかったが、都会と地元との行き来で忘れかけていた農業をあらためて意識した。
そのころ、勝美が病に伏せる。リヤカーいっぱいに野菜を積んで、店に運んできた生産者の姿が脳裏に浮かんだ。「会津の農家は今、売り上げが伸びず苦しんでいる」。父の言葉を思い出した。
《受け継がれてきた農家との信頼関係...。終わらせていいわけがない―》
運命に導かれるように心が「農」に向いていった。
会津食のルネッサンスをつくり、主力商品にコメを選んだ。「日本のコメが持つ文化的価値が武器になる」。会津にとどまらず、海外への展開をにらんでいた。
会津の農家60人に声を掛け、オリジナルブランド米の栽培を依頼した。土作り、田植え時期、減農薬...。コメへの思い入れを訴えても、振り向いてくれる農家は1人もいなかった。返事は「誰かがやって大丈夫だったらやる」。がくぜんとした。
やることに一切、口を挟まなかった父が言った。「知り合いの農家に頼んでおいたから」。8人の農家で始まったコシヒカリのブランド米「会津継承米 氏郷」は今、会津地方の33農家で作られている。
高校時代、会津初の陸軍大将、柴五郎の歩みをたどり、旧斗南藩のあった青森県に赴いた。「会津に生まれる人の辱めにならない」。戊辰戦争後、過酷な処遇を受けながらも軍人として上り詰めた柴の心意気に打ち震えた。食の道を駆け続ける原動力は先人の郷土愛だった。(文中敬称略)
※柴五郎 旧会津藩士の息子で陸軍軍人。幼少のころ斗南藩へ移封され、どん底の生活を送るが、後に士官学校へ進み才覚を発揮。義和団の乱の防衛戦などで功績を挙げ、陸軍大将に昇進する。会津若松市の恵倫寺に墓所がある。
