ふくしまを詠む 黛まどかの俳句紀行

  • Check

田島祇園祭 南会津町 厳かに、賑やかに

古式ゆかしく繰り広げられた七行器行列
日雷喧嘩屋台を囃しをり  (日雷"ひがみなり" 晴天に起こる雷で、雨は降らない。)

 南会津の田島へと向かった。今日は祇園祭の宵祭。四方をぐるりと山に囲まれた町中には祭囃子が響き、裃姿の男性が忙しそうに行き交い、早くも高揚感が町全体に溢れていた。
 会津田島祇園祭は、京都、博多と並ぶ日本3大祇園祭の1つであり、国指定重要無形民俗文化財に指定されている。鎌倉初期にこの地方を治めることになった長沼宗政が信仰していた牛頭天王須佐之男命を奉斎して天王社として祀り、旧来から田島の鎮守であった田出宇賀神社の祭に京都八坂神社の祭礼を取り入れたのが起源とされる。祭は伊達政宗が会津を支配した時代に一時中断したが、慶長八(1603)年に住民たちが当時の城代小倉行春に嘆願して再興された。また明治12(1879)年より、隣接する熊野神社祭礼を祇園祭に併せて行うことになった。
 「中大屋台世話人詰所」の前で子供歌舞伎に出くわした。江戸末期に始まった子供歌舞伎は明治初期に廃止になったが、その後平成6(1994)年に110年ぶりに復活したという。4つの大屋台が移動しながらそれぞれの演目を演じる。私が観たのは地元鴫山城を舞台にした「時津風日の出の松 鴫山城内の段」。子供たちは雪解けの頃から練習をはじめ長い台詞を覚えるという。伊達政宗の軍勢に攻め込まれた城主長沼盛秀を助けるため、自ら罪を一身に背負い切腹して和睦を果たした家老隼人之助を主人公に描いた物語は2時間にも及ぶ。幕間には地元の子供たちを満載にした大屋台が「おーんさん、やれかけろ!」の掛け声と共に通りを駆ける。喧嘩屋台とも呼ばれる大屋台を操るのはおんさん(おじさん)達だ。若者よりもねじり鉢巻のお年寄りの方が手馴れていて勇ましい。途絶えていた時期には旅役者に頼んで行っていたという子供歌舞伎。その空白を埋めるように、お年寄りから子供へと微かな記憶によって引き継がれてきたのだという。
 田島祇園祭は「お党屋制度」と呼ばれる9組(現在)の党屋が持ち回りで執り行う。1月のお党屋お千度に始まりたくさんの神事を経て、7月24日の太々御神楽奉納に至るまで約半年間に亘って時に厳かに、時に賑やかに行われる。中でも最も華やかで且つ田島祇園祭の特色でもある神事が、7月23日の七行器行列である。裃姿の男性と花嫁姿の未婚の女性が供え物を入れた7つの行器を掲げ神社まで練り歩く。
 23日、朝からあいにくの雨となった。参道の入り口で待っていると、行列は傘を差しながらゆっくりと姿を現した。やがて通りを曲がって両側に青田の広がる参道に入ると、先程までの雨がぴたりと止み、鳥居にさしかかる頃には日が差してきた。前日に宮司さんがおっしゃった言葉が甦った。「田島とは本来"日の町"という意味なんですよ」。長い歳月の中で途絶えたり再興したりと様々な変遷を経ながらも、田島の人々が大切に守り抜いてきた"しきたり"の中で行われる祭を神は喜び、祝福しているのだと思った。
 裃の風にふくらむ 青田かな
 神輿渡御の後、愛宕山に鴫山城址を訪ねた。今は大門の石垣を残すのみだが、一つ一つの石の大きさと風格は南会津最大の軍事拠点であったことを偲ばせるに十分だ。子供歌舞伎では家老の犠牲で救われた盛秀だったが、結局はその後伊南の領主河原田氏との戦いで没し、400年にわたる長沼氏の支配は終わりを告げる。
 町の方に目をやると、緑滴る青垣に守られながら、祭は続いていた。

■復元した大屋台展示
 会津田島祇園祭は八百二十余年の伝統を誇る国指定重要無形民俗文化財。疫病・災難・厄よけ・良縁結び・長寿・豊作を願い毎年7月22日から24日まで催される。七行器行列が行われるのは23日の早朝。会津田島祇園会館には原寸大に復元した大屋台などが展示され、祭りの概要を知ることができる。問い合わせは南会津町商工観光課 電話0241(62)6200へ。


ふくしまを詠む 黛まどかの俳句紀行の最新記事

>> 一覧