ふくしまを詠む 黛まどかの俳句紀行

  • Check

須賀川~福島 「おくのほそ道」 芭蕉が風流感じる

乙字ケ滝にたたずみ、芭蕉をしのぶ黛さん
 秋深む白河の関越えてより
 
 風流の初やおくの田植うた
 芭蕉

 約5カ月間に及んだ『おくのほそ道』の旅で、松尾芭蕉がようやく旅の目的であった"風流"を感じることができたのは白河の関を越えてから、つまり福島へ入ってからのことだった。芭蕉はまず須賀川に地元俳壇の宗匠相楽等躬[とうきゅう]を訪ねる。須賀川は奥州街道屈指の宿場町で古くから俳諧が盛んであった。等躬は中世白河の領主結城氏の子孫で須賀川宿の駅長を務める傍ら、『蝦夷文談抄』等を記し、みちのくに杖を曳く者に歌枕や名所についての情報を与えていた。芭蕉は曽良と共に元禄2年4月22日(陽暦6月9日)から8日間須賀川に滞在し、等躬はじめ地元の俳人たちと歌仙を巻いたり、名所旧跡を訪ねたりして親しく交わっている。
 さて、その等躬に「先づ、白川の関、いかにこえつるにや」と問われた芭蕉は、冒頭の一句を以て答えた。そしてこの句を"発句"に等躬が"脇"、曽良が"第三"を詠み等躬宅で三巻の連句を巻き上げた。
 翌日、等躬屋敷の一隅に庵を結んでいた僧可伸[かしん]を訪ねた芭蕉は、その慎ましいくらしぶりに尊敬する西行の深山での姿を重ね感動する。

 世の人の見付けぬ花や軒の栗
 芭蕉

  可伸の庵跡は旧道から少し入った趣のある細い路地に面し、四代目の栗の木が植えられていた。突然の雨に栗の木陰で雨宿りをすることになった私は、しばし芭蕉や可伸を偲んだ。

 5月雨の滝降りうづむ水かさ哉
 芭蕉『曽良日記』より

 滞在最後の日、芭蕉は地元俳人たちの案内で阿武隈川唯一の滝である乙字ケ滝に遊んだ。折からの5月雨で増水していたため、芭蕉たちは下流の"田中の渡し"を渡ったようだ。風流を解する俳諧仲間と滝の涼味を分かち合ったひとときに、羈旅[きりょ]の労も忘れたことだろう。かつては船運最大の難所だったというが、川の北側には舟を通すための運河が今も残っていた。その後芭蕉は奥州街道を守山、郡山と進み、桧皮の宿(日和田)を過ぎて、歌枕で有名な安積の沼にさしかかる。

 みちのくのあさかの沼の花かつみかつみる人にこひやわたらむ
 『古今和歌集』

 ここで、芭蕉と曽良は古歌に詠まれたかつみの花を探す。かつみとは陸奥に流された藤原実方が端午節句用の菖蒲の花が陸奥にないことを知り、代わりに安積沼のかつみを使わせたという故事に由来するもので、あやめ、真菰、杜若など様々な説がある(現在郡山市では「ひめしゃが」としている)。ちなみに西行は陸奥の旅の途上に実方の墓を詣でている。いずれにしても既に芭蕉の時代にはかつみがどの花をさすかは明らかではなかったようで、「かつみ、かつみ」と人に聞きながら探し歩いているうちに日が傾いてしまう。つまり福島のくだりは、その底流に"風流"が奏でられ続けており、可伸、西行、乙字ケ滝、花かつみと風流に明け暮れるのだ。その後芭蕉は歌枕の黒塚を二本松に、しのぶもぢ摺りを福島に訪ね、風流をさらに追い求めていく。

■乙字ケ滝近くに句碑

 乙字ケ滝の名前の由来は水が乙字の形をして流れ落ちる様にちなむ。水かさが増すと100メートルの川幅いっぱいに滝口が広がり、「日本の滝百選」(平成2年)にも選ばれた。滝の近くは公園として整備され、滝見不動尊御堂の傍らには芭蕉の句碑が建立されている。問い合わせは須賀川観光協会 電話0248(88)9144へ。

ふくしまを詠む 黛まどかの俳句紀行の最新記事

>> 一覧