ふくしまを詠む 黛まどかの俳句紀行

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少年隊 二本松市 悲しみ誘う一途さ

大隣寺で少年隊士の供養塔に手を合わせる黛さん

 紅葉且つ散る本丸を称へつつ

 ※紅葉且つ散る:紅葉しながら散ること。


 幕末の二本松に、会津の白虎隊よりもさらに若い命を散らした少年たちがいた。


 1868年5月、新政府軍が白河城を占拠すると、奥羽越列藩同盟からも守山藩、三春藩と降伏する藩が続いた。7月、いよいよ新政府軍が二本松に迫る中、主力兵の大半を白河城攻防に送り込んでいた二本松藩では、独自の「入れ年」制度を使い、13歳以上の少年の出陣を許可した。


 言の葉の耳に残るや今朝の秋

 少年兵上崎鉄蔵の母が、戊辰戦争50回忌に詠んだ一句である。出陣の朝、いつものように「行ってこいよ」と母が声をかけると、「今日は"行け"でいいのです」と答えてにっこり微笑み頭を下げると、駆け足で出かけていったという。その声が半世紀の時を経て尚母の耳には残っているのだ。身体が小さくて自分では長刀が抜けず、互いの刀を抜き合ったという逸話は、いかに彼らが幼かったかを物語って余りある。出陣前夜は修学旅行の前夜のようなはしゃぎようだったという。その一途さと純真さがより悲しみを誘う。


 7月28日、二本松城(霞ケ城)に結集した62人の少年隊のうち25人は城の南側の大壇口に、他は各陣に配属された。翌朝8時半、大壇口を護る少年隊に対し、西軍は迂回して砲撃を始めた。少年たちは隊長木村銃太郎の指揮の下懸命に応戦する。しかし銃太郎が撃たれ退却命令を出すと大壇口の戦いはわずか1時間半で幕を下1ろした。重傷を負った銃太郎は副隊長に介錯をさせ果てた。少年兵たちは泣きながら首を抱えて退却したという。敵将の野津道貫は、「少年兵たちの射撃はすこぶる正確で、おそらく戊辰戦争中第一の激戦であったろう」と回顧している。


 初冬の二本松城を訪ねた。本丸跡からは360度の展望が利き、背後には安達太良山が聳(そび)えていた。折からの強風に落ち葉した紅葉が下から吹き上げられて、本丸跡へと舞い上がってきた。城では同盟の義を貫いた城代の丹羽和左衛門はじめ多くの家臣たちが自刃して果てた。炎に包まれる城を少年たちはどのような思いで見上げただろうか。初めて体験する戦争と死の恐怖。落城した藩からは何の指示も届かなくなった。結局14名の少年兵が命を落とした。


 二本松藩主丹羽家菩提所の大隣寺境内には、戊辰戦争で殉難した家臣をはじめ援軍として共に戦った仙台藩、会津藩士の供養塔が建立されている。それらに囲まれるように少年隊の供養塔が建っていた。整然と並んだ供養塔に、胸を張り誇らしげに出陣する少年たちの勇姿を私は重ねた。


■二本松藩の入れ年制度 2歳早く藩籍入り許可

 二本松藩では数え20歳で成人として認め番入り(藩籍入り)を命じた。しかし、18歳で成人の届け出をすると、藩は二歳の差を黙認し、番入りを命じた。二本松藩独自の「入れ年」制度だ。


 戊辰戦争時、藩は兵力不足のため15歳まで、つまり「入れ年」を当てはめると、13歳まで出陣を許可した。問い合わせは二本松観光協会(二本松市役所観光課内)(電話)0243(55)5122へ。


■経歴
 まゆずみ・まどか 2002年「京都の恋」で第2回山本健吉文学賞受賞。近著に「引き算の美学」、句集「てっぺんの星」、編著「まんかいのさくらがみれてうれしいな~被災地からの一句」など。携帯メールマガジンは無料配信中。( http:madoka575.co.jp/㎜/ )

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