ふくしまを詠む 黛まどかの俳句紀行

  • Check

民謡 相馬地方 人と故郷をつなぐ

羽黒山の麓にある出羽神社。明治維新頃まで歌垣が続いていたという
歌垣の山かぜ光る風ひかる
※風光る 春になり日差しが強くなってくると、吹く風さえも光っているように感じられる。

 古代日本には歌垣と呼ばれる行事があった。男女が山や市などに集い、歌を詠み合うこの風習は出会いや求婚の数少ない機会でもあった。大和の海石榴市や筑波山などが有名だが、相馬にも歌垣の地がある。相馬市と宮城県伊具郡の境にある羽黒山だ。歌垣の多くが時代と共に形骸化し途絶えていく中で、羽黒山の歌垣は明治維新頃まで続いていたらしい。
 「どこから見てもぼた餅のように丸く見えるので旅人の目印になっていたのですよ」。車中民俗芸能研究家の懸田弘訓先生がおっしゃった。やがて春霞の中に羽黒山が姿を現した。確かにどの方向から見ても形を変えることがない。

 忘れらりょうか お羽黒様の 一の鳥居の 左わき
 月に一度は お羽黒様へ ご利生あるなら 来月も再来月も

 通常歌垣は春と秋に行われるが、羽黒山では真冬を除いて毎月16日に行っていた。人々は「羽黒節」にのせて即興で歌を作ったという。麓にある出羽神社の一の鳥居の脇で車を降りた。ここからいきなり急な上り坂がはじまる。若者たちは月明かりに手を取り合って山頂を目指したことだろう。ところで、羽黒節から生まれた民謡に「相馬二遍返し(南方)」がある。

 相馬相馬と木萱もなびく
 なびく木萱に花が咲く 花が咲く

 下の句(5音節)を2度繰り返すことから二遍返しと呼ぶそうだ。天明2(1782)年から同7年にかけて奥羽を大飢饉が襲った。わけても相馬の状況は筆舌に尽くしがたく、人口が3分の1までに激減。相馬藩は北陸地方に僧侶を派遣し、多くの移民を募らなければ藩が成り立たないほど逼迫した。「相馬二遍返し」の歌詞には、言の葉の力で福を呼び込もうとする切なる願いと言霊が感じられる。

 懸田先生のご案内で天明餓死供養碑を訪ねた。飢饉の7年後に地元の民によって建立されたという。小さな小さな碑は、生き残った人々の祈りの結晶だ。碑は二百二十余年もの間風雪に耐え、先人たちの万感の思いを静かに語り継いでいた。傍らに植えられた桜からは、今を生きる相馬の人々の先祖への鎮魂の思いがひしひしと伝わってきた。

 相馬は民謡どころとして全国にその名を馳せている。「祭や芸能はふるさとそのもの。生きる場、生きる支えです。相馬藩が復興できたのもそれらが支えとなったからです」と懸田先生はおっしゃる。風土の中で生まれ、歌い継がれてきた民謡。一節口ずさめば忽ちふるさとの風景が眼裏に広がり、どんな時にも人と人、人と故郷と繋いでくれる。

 「相馬大漁祝い歌」で有名な原釜と隣の松川を訪ねた。津波で甚大な被害を受けたこの地域だが、松川浦には網を収納する大きな倉庫が建てられていた。昼食をとった食堂では、震災後新たにつくった海鮮定食が人気を集めていた。浜に大漁祝い歌が響く日もそう遠くはないだろう。逞しさの源流に、天明の大飢饉を乗り越えた相馬びとの誇りを見た。

 まゆずみ・まどか 2002年「京都の恋」で第2回山本健吉文学賞受賞。近著に「引き算の美学」、句集「てっぺんの星」、編著「まんかいのさくらがみれてうれしいな~被災地からの一句」など。携帯メールマガジンは無料配信中。(http:madoka575.co.jp/mm/)










ふくしまを詠む 黛まどかの俳句紀行の最新記事

>> 一覧