ふくしまを詠む 黛まどかの俳句紀行

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檜枝岐歌舞伎 270年続く日本の宝

大勢の観客の前で奉納された伝統の檜枝岐歌舞伎「絵本太閤記 本能寺の段」


 地芝居の跳ねて降る降る桜しべ

※桜蕊[しべ]降る(春)...桜の花が散った後、萼[がく]に残った蕊が散ること。


 切り立った山々が村を外界から隔てるように囲む檜枝岐は、面積の98%を森林が占め、人口密度が日本一低いという。平家の落人伝説も残る檜枝岐村に、270年間続く奉納歌舞伎を観に行った。お伊勢参りをした村人が、上方や江戸で観た歌舞伎を持ち帰り、親から子へ孫へと口伝えしたのが始まりだ。檜枝岐歌舞伎の特徴は今も当時の型や様式を留めるその純粋性にあるという。歌舞伎は5月12日の愛宕神祭礼と8月18日の鎮守神祭礼の他、近年では観光用に9月にも行われている。気候が厳しい山村で地芝居が娯楽として根付き、その閉鎖的な自然環境ゆえに独自性を保ちながら今日まで残されてきた。まさに風土が育んだ芸能だ。


 5月の檜枝岐村はまだ芽吹きがはじまったばかりで、ところどころに雪が残っていた。沼田街道に沿って細長く広がる村には檜枝岐川が背筋のように流れ、車を降りると遠近[おちこち]から雪解け水が村を奔[はし]り抜ける音が聞こえてきた。鎮守神社の境内では茅葺[かやぶき]の舞台(舞殿)の袖に定式幕が張られ、夜の本番に向けて準備が進んでいた。千葉之家花駒座座長の星長一さんにお話を伺った。檜枝岐では成人したら一度は歌舞伎を経験するという。今回の演目は「絵本太閤記 本能寺の段」。この日に向けて冬の間稽古を積んできた。「観客の拍手も励みになりますが、やはり私たちの意識にあるのは神様です」。舞台の正面に座す社殿を時折仰ぎながら星さんは語る。昭和30年代の写真には着物姿で食い入るように歌舞伎を観る村人が写っている。お年寄りも子供も皆弾けるような笑顔だ。娯楽が少なかった時代、年に2度の地芝居を人々はどれほど心待ちにしていただろう。5月の歌舞伎が終わると村人は山へ畑へと散り散りになり、8月の歌舞伎までほとんど顔を会わせる機会はなかったそうだ。


 早めの夕食をとりに宿に帰ると、まず御神酒が振る舞われた。岩魚の昆布巻きや赤飯などハレの日の料理が並ぶ。「今日はお祭ですからね」。ご主人の口から度々「お祭」という言葉が出る。村人が奉納歌舞伎をいかに楽しみにし、大切にしてきたかが伝わってきた。


 夕食後灯籠がともった神社に戻ると、舞台前に敷かれた花茣蓙[はなござ]は観客で埋まっていた。私は境内の斜面を利用して作られた石段席に座った。舞台のそびらの芽吹き山が借景となり、村歌舞伎の素朴さを引き立てている。


 引幕が開き、縁起物の「寿式三番叟[ことぶきしきさんばそう]」で舞台を清めると、いよいよ「絵本太閤記 本能寺の段」が始まった。光秀に攻め込まれた春長(信長)と妻阿野局、春長の家臣森蘭丸と恋仲にあるしのぶの別れの場面が見どころだ。兄が光秀に加勢しているしのぶは自らの身の潔白を証明するため、春長と蘭丸の前で自刃[じじん]してみせる。芝居が佳境に入ると俄かに雨が降り出した。雨はしのぶの涙を思わせ、別れの場面をいっそう悲しくした。そして神がそこにいて歌舞伎を見ていることを思わせた。


 戦時下も過疎化が進んだ高度経済成長期も一度も途絶えることがなかった檜枝岐歌舞伎は、村人たちの大切な行事であると同時に、近代化の陰で多くの伝統文化が消え或は変容してしまった日本の宝でもある。


■略歴

 まゆずみ・まどか 2002年「京都の恋」で第2回山本健吉文学賞受賞。主な著書に、随筆「引き算の美学」、句集「てっぺんの星」、共著「新・資本主義宣言」など。最新エッセー集「うた、ひとひら」が新日本出版社より刊行された。携帯メールマガジンは無料配信中。(http://madoka575.co.jp/mm/)

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