ふくしまを詠む 黛まどかの俳句紀行

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野馬追 南相馬市 勇壮さ、郷土の誇り

小高神社で行われた神事「野馬懸」。裸馬を捕らえようと、白装束の御小人たちが素手で飛びかかる
<br> 初陣の武者に青嶺の澄みわたる ※青嶺(あおね)...緑滴る夏の山

 一木の蔭もない灼けきった雲雀ケ原に、先祖伝来の甲冑を纏[まと]った騎馬武者450騎が列を成して続々と到着した。それぞれの行列がお供してきた太田神社、小高神社、中村神社の神輿[みこし]を本陣山に安置し、緋色[ひいろ]の母衣を背負った総大将の訓示が終わると、民謡「相馬流れ山」と「相馬流れ山踊り」が奉納された。今年の踊りを担当したのは浪江町。この日のために避難先から集まり練習を重ねてきた浪江の人々に惜しみない拍手が送られた。甲冑競馬と神旗争奪戦を前に、雲雀ケ原は高揚感に包まれている。突如一頭の馬が武者を振り落とし、狂ったように疾走しはじめた。「放れ馬を捕まえろ!」。騒然となった場内に年寄武者の声が響く。色とりどりの旗差物、馬の嘶[いなな]き、蹄[ひづめ]の音、砂埃[すなぼこり]...阿武隈山嶺を背景に繰り広げられる行事は、戦国絵巻を見るようだ。

 野馬追は相馬家の祖といわれる平将門が創始して以来1千年余り受け継がれてきた神事であり、かつては放牧された野馬を追う軍事訓練でもあった。現在の原町全域を覆う広大な土地を「野馬土手」と呼ばれる高い堤で囲んだ「野馬追原」に馬を放ち、騎馬によって小浜の海岸へと追い込んでいく。潮垢離[しおごり]をして清められた馬は小高妙見社(現小高神社)境内へとさらに追い込まれ、その中から一頭が選ばれ神馬として奉納された。

 野馬追は江戸時代には全国に知られるところとなり、原ノ町宿は物見遊山の旅人で大変賑わったようだ。「野馬追勘定」とは、日頃の付けを野馬追の後で支払うという取り決めで、往時の繁昌ぶりが窺える。「気分の上でも野馬追が1年の節目なのですよ」と原町の人は言う。

 震災の年、原発事故のため福島第一原発から20キロ圏内にある小高神社は警戒区域となってしまった。雲雀ケ原と太田神社は緊急時避難準備区域に。津波で亡くなった武者も馬もいた。千年続いてきた神事をどうするのか。苦渋の末相馬の人々は行事を縮小して催すことを決定した。今もなお多くの人が避難生活を送るこの地域で祭事を継続することは想像以上の困難を伴うに違いない。しかし野馬追を続けることは、地域の結びつきをより強め、郷土愛と誇りを再確認するきっかけにもなる。野馬追を支える人たちの姿を目の当たりにし、今だからこそ祭事が重要なのだとあらためて思った。

 翌朝、小高神社では昔の名残りを留める神事「野馬懸」が行われた。法螺の音と共に、槿が咲く参道を三頭の馬が騎馬武者に追われながら駆け上がってきた。「駒取竿」で御神水がつけられた一頭の裸馬に白装束の御小人たちが素手で飛びかかった。一つ間違えば大けがをする命懸けの神事だ。捕らえられた馬は神馬として神前で塩と米が与えられ、鬣[たてがみ]に標を結って奉納された。馬を奉納するのは人々の安寧と繁栄を祈るためだ。

 廃仏毀釈[はいぶつきしゃく]・神仏分離政策の折、小高神社では妙見菩薩が北極星を神格化した菩薩であることから、高天原に最初に現れた天之御中主神と北辰信仰を合わせて対応したという。千年と続けるには時代や環境に柔軟に合わせる工夫と知恵が必要だ。しかしその芯を貫く人々の祈りに昔も今も違いはない。

■略歴

 まゆずみ・まどか 2002年「京都の恋」で第2回山本健吉文学賞受賞。近著に「うた、ひとひら」、句集「てっぺんの星」、編著「まんかいのさくらがみれてうれしいな~被災地からの一句」など。携帯メールマガジンは無料配信中。(http:madoka575.co.jp/mm/)

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