ふくしまを詠む 黛まどかの俳句紀行

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相馬駒焼 相馬市 400年続く伝統の火

400年の歴史を持つ相馬駒焼。走り駒が今にも飛び出してきそうだ。
日盛(ひさかり)の黙(もだ)をあつめて登り窯

※日盛(ひさかり)...夏の正午から3時ごろまで、最も日が強く照りつけ、暑い盛り。日の盛り。

 絵付の馬は鬣[たてがみ]を風に靡[なび]かせ力強く地を蹴り上げて今にも茶碗[ちゃわん]から飛び出してきそうだ。相馬藩の幕紋である繋[つな]ぎ駒にちなみ、走り駒を意匠にした相馬駒焼は、東北地方で現存する最古の登り窯だ。400年の歴史を持つこの相馬駒焼が東日本大震災の影響で存続の危機にある。

 17世紀初頭、田代家初代源吾右衛門は藩命により京都の野々村仁清の元で修業を積み、「清」の一字を与えられて田代清治右衛門と改名して帰郷、相馬の地に開窯したと伝えられる。後に砂を混ぜて焼く砂焼の製法を考案。相馬家の幕紋の駒を描いて、相馬駒焼とした。以来藩窯として窯元田代家のみで製作され、主に藩主の茶道具や什器類、幕府や朝廷への献上品等が作られた。相馬駒焼は御留焼と呼ばれ、明治維新まで一般に流通することはなかった。11代為清は、1867年に「法橋」の叙位を拝受。維新後相馬駒焼では「田代」「法橋」の刻印を使い、法橋号は代々襲名されてきた。現在は福島県の重要有形民俗文化財に指定されている。

 「ここに来るといつもほわっとあたたかくて、静かで...ほっとするんです」。15代目夫人の田代恵三子さんが、登り窯と工房を案内してくださった。登り窯は4
年前の地震で焚[た]き口と最後尾の房が崩れた。製作途中のものも含め3割以上の作品が損壊したという。失意の中、震災の4か月後に15代目は病で旅立たれた。登り窯の傍には薪[まき]や匣[はこ]が積み上げられたままで、かつての様子を偲[しの]ばせる。「ひとたび窯に火が入ると緊張感でぴりぴりしていました」。登り窯では1回に大小2000個の作品が焼かれるという。失敗は許されない。

 恵三子さんが15代の茶碗でお茶を淹[い]れてくださった。茶碗は持つと軽く、砂焼の肌が手によく馴染[なじ]む。使い込むほど風合いに深みが出るのだそうだ。絵付けをするのは当主の仕事で、代々それぞれの駒に特徴があるのだという。15代の描く駒は表情が優しい。

 「400年の間、細々とようやく繋いできたのです」と恵三子さんは言う。14代の兄は乗馬中に落馬し、それがもとで病没。それ以来田代家は野馬追から遠ざかった。跡継ぎが出来ないために離婚し、再婚してようやく跡継ぎを得た代もある。養子もいる。陶器が売れない時代もあれば、人手不足に陥った時代もある。行李を背負った流れ職人もいつしか来なくなった。20年程前に火力発電所が出来てからは兼業農家が増え、農閑期に手伝っていた職人がいなくなった。それらの職人に代わって近年では地元の女性たちが手伝ってくれていた。地震も幾たびかあった。しかし原発事故は400年の中で初めて経験することだった。「再興しようとすると次々に新たな困難に直面し、戸惑いの連続でした」。恵三子さんの言葉の一つ一つには伝統を継承することの重責が感じられた。

 登り窯と覆い屋根を修復し、田代窯を再興しようという声が上がっている。幸い15代が製作工程や技術を仔細にデータベース化して残してくれてある。400年続いてきた伝統の火を消してはならない。黙[もだ]を尽くした真昼の登り窯は、再び火が入るその時をじっと待っているかのように見えた。

■経歴
 まゆずみ・まどか 2002年、句集「京都の恋」で第2回山本健吉文学賞受賞。オペラ「万葉集」「滝の白糸」の台本執筆、福島県の応援歌「そして、春~福島から世界へ」の作詞なども手掛ける。近著に「うた、ひとひら」、「引き算の美学」、句集「てっぺんの星」など。公式ホームページhttp://madoka575.co.jp

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