ふくしまを詠む 黛まどかの俳句紀行

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早乙女踊 昭和村 初田植 三島町 太古の切なる祈り

道化役も登場し、地区民を楽しませた「両原早乙女踊」=昭和村
 
小正月山から山へ日の渡り

 1月14日の夕刻、昭和村両原では200年の歴史を持つ「早乙女踊」が行われた。豊作祈願の芸能で、かつては旧暦の小正月に行われていた。大きな「団子さし」が飾られた郷土芸能伝承館の舞台の下では、踊り手の若い男性二人が村の女性たちによって着付けや化粧を施されていた。「これどうやるんだっけ?」支度の手が止まるたびに、厨[くりや]から年配の女性が出てきて手伝う。終始笑い声が絶えない。
 「私が若い頃は、一軒一軒家を廻[まわ]り、夜中の2時頃まで踊っていました。その後酒を飲んで、それは楽しかったですよ」。以前「成木責[なりきぜめ]」を見せてくださった羽染兵吉さんにお話を伺った。
 「舞込んだよな。舞込んだ、千秋楽で舞込んだ」村人が掛け合いで歌い出し、早乙女踊が始まった。歌はまず訪れた家を褒め、農具や馬、1年の祭事などありとあらゆるものを讃[たた]える。素朴で温かい節回しだ。鳴り物は太鼓のみ。踊り手の一人五十嵐道夫さんの小学生の息子さんが叩[たた]く。赤い前掛けに手甲を付け菅笠[すげがさ]を被[かぶ]った早乙女は、早苗に見立てた緑色の扇子を右手に持ち、田を植える仕草[しぐさ]をしながら踊る。ひたすら同じ動作を繰り返す振り付けは、田植の過酷さを彷彿[ほうふつ]させた。よちよち歩きの子どもが舞台に上って一緒に踊り出し、笑いが起こる。
 昭和村の早乙女踊の起源は古く、文化文政期には南会津より伝わっていたという。村では伝統を守り、早乙女は男性が務める。「大戦中でも規模を小さくして行いました。1度も途絶えていないのが誇りです」と羽染さん。一度目の踊りが終わると、本当の田植さながらに早苗饗[さなぶり]が始まり、酒や団子、漬物が振る舞われた。
 2度目の踊りにはえんぶりや鍬[くわ]を手にした道化も登場し、会場はますます沸いた。道化役は即興で舞台に上がるのだという。道化のお一人は五十嵐さんのお父さん。親子3代の共演だ。「この辺りは昔から長い冬との闘いだったのです」。羽染さんがぽつりとおっしゃった。「日が永くなってきましたな」...そんな挨拶[あいさつ]が交わされるようになるのは2月も末。雪に埋もれる長い冬のちょうど中頃に、息継ぎをするように人が集まり、神に祈る。
 翌朝、三島町川井地区で予祝行事の「初田植」を見せていただいた。「昨日はお疲れさん」朝8時、近所の人たちが20人程集まってきた。前日は「鳥追い」があったという。森田勝さんが雪に覆われた田に立ち、今年の恵方北北西に向かって礼拝をした後、雪の上に1メートル四方に籾[もみ]殻を撒[ま]いた。田んぼに見立てた籾殻の上に松、豆殻、稲藁[わら]を束ねたものを12本挿[さ]していく。松は山のもの、豆は畑のもの、稲藁は田のものを象徴し、すべての豊穣[ほうじょう]を祈る。12本は12か月を表すという。「初田植」が終わるとすぐに、森田さんは「歳の神」の準備に向かった。
 小正月に行事が多いのは大陸から暦が入ってくる前の時代に、月の満ち欠けを目安に暮らしていた名残だという。満月を月の始まりとしていたため、年の始めの満月の日つまり小正月に予祝の行事が重なった。暦が変わっても古代のままに引き継がれていることに、自然災害が多く厳しい風土で生き抜いてきた人たちの息災を願う切なる思いが感じとれる。素朴で力強い奥会津の小正月の行事には、太古の匂いがした。
=随時掲載=

※季語「小正月」(新年)...1月14日の夕方から15日にかけて祝う正月。元日を大正月と呼ぶのに対していう。

 まゆずみ・まどか 俳人。オペラの台本執筆、福島県の応援歌「そして、春~福島から世界へ」や校歌の作詞、舞台での朗読など、幅広い分野で活動中。「日本再発見塾」呼びかけ人代表、北里大学客員教授。著書に紀行『ふくしま讃歌』、句集『てっぺんの星』他多数。
公式ホームページhttp://madoka575.co.jp

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