ふくしまを詠む 黛まどかの俳句紀行

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巡礼者愚庵 いわき市 別れが人生に彩を

「愚庵」の入り口に立つ天田愚庵像

 巡礼の鈴の音より秋澄めり

 明治二十六年九月二十日秋彼岸の入りの日、深網代[あじろ]の笠[かさ]を被[かぶ]り、樫[かし]の撞木杖[しゅもくづえ]を手に、愚庵は西国三十三観音巡礼へ発[た]とうとしていた。
 天田愚庵[あまだぐあん](甘田久五郎、後に天田五郎と改名)は、安政元年に平城下の勘定奉行甘田平太夫の五男として生を受けた。戊辰戦争に十四歳で出陣し命辛々帰還するも、両親・妹と生き別れになる。最後に三人を見た村人の話では、平城陥落後、行方も告げず巡礼姿で旅立っていったという。

来る年も又来る年も
くる年も徒らにのみ
暮るる年哉  愚庵

 五郎の肉親捜しの長い旅はそこから始まる。ある時は懸賞金付き広告を新聞に載せ、またある時は半信半疑で易者の託宣に従い、日本中を隈[くま]なく捜し歩いた。驚くべきはその間に名だたる傑物に知遇を得ていることだ。山岡鉄舟に禅と剣を、落合直亮に国学を、丸山作楽に歌を学んだ。西南戦争で戦死した桐野利秋等と意気投合し親しく交わった。鉄舟を介して清水次郎長と出会い、一時は養子縁組もしている。血気盛んな五郎の気質を案じ、また次郎長のネットワークが肉親捜しに役立つのではないかという鉄舟の親心からであった。五郎が執筆し、勝海舟が題辞を寄せた『東海遊侠[ゆうきょう]伝』は、次郎長ものの小説や芝居の種本となる。
 他方、家族の行方は杳[よう]として知れない。就いた職は、神社の権禰宜[ごんねぎ]、富士山麓や浦安の開墾事業、写真師、新聞記者など。いずれも肉親捜しが元にあっての縁だった。
 明治二十年四月、三十四歳の五郎は由利滴水禅師のもと修学院林丘寺で剃髪[ていはつ]し、「鉄眼」となった。肉親捜しに終止符を打ち、心の裡[うち]に三人の安寧を祈る。四年間の修行の後は、清水寺の産寧坂に庵[いおり]を結び、自らの名と共に「愚庵」と称した。
 四十歳になった愚庵は、その庵から巡礼に出た。「一には父母菩提[ぼだい]のため、二には衆生結縁のため」と、代参を希望する人々に一人三銭三里の喜捨を募ると、百日のうちに千五百五十人の申し出があったそうだ。滴水は笈摺[おいずる]と各霊場の執事宛に書いた手紙を与えて、旅立つ愚庵を見送った。
 巡礼中は名所旧跡も旺盛に見聞して歩いた。が、しきりに気にかかるのは、母のない渡し守の少年などであった。良弁僧正の逸話に涙し、父母を恋うる芭蕉の句をしみじみと反芻[はんすう]する。降り続く雨や寒さに苦しみ、雪に阻まれ、道に迷って行き暮れることもあった。同時に人の情や機微に触れ、旧交を温める旅でもあった。それは肉親捜しの日々をなぞるかのようでもあっただろう。愚庵の傍らには巡礼姿の両親と妹が寄り添っていたに違いない。四百里に及ぶ巡礼は十二月二十一日冬至の日に結願する。主の帰庵を待っていたかのように、庭の早梅が七、八輪咲いていた。愚庵はそれから十一年を生き、桃山に結んだ新庵で息を引き取った。
 初秋、いわき市松ケ岡公園内に移築された「愚庵」を訪ねた。自らが設計した庵は、厨[くりや]の他に居間と寝室、そして二畳の瞑想[めいそう]室があり、どの部屋も庭に向いて大きく開いている。
 晩年の愚庵はこの瞑想室で、来し方をそして亡き人々を偲[しの]んだに違いない。摩尼車[まにぐるま]を回すように濃厚な時間と経験を重ねて駆け抜けた五十一年間。もしも肉親との別れがなければ、愚庵の人生はこのように彩豊かであっただろうか。両親と妹は、彼の世から愚庵を導き続けたのだ。歌、国学、侠客、禅...どの世界にも属することのなかった愚庵は、生涯巡礼者であった。
=随時掲載=

 まゆずみ・まどか 俳人。オペラの台本執筆、福島県の応援歌「そして、春~福島から世界へ」の作詞、BS朝日「あなたの駅前物語」の俳句と語りなど、幅広い分野で活動中。「日本再発見塾」呼びかけ人代表、北里大学客員教授。著書に紀行『ふくしま讃歌』『奇跡の四国遍路』、句集『てっぺんの星』他多数。
公式ホームページhttp://madoka575.co.jp

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