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【立地の遺伝子1】「東電誘致 生きる糧」 天野氏の夢今は幻

 木枯らしが舞う中に、子どもたちの姿はない。例年であれば、寒さを気に掛けない元気な声が響く。福島市郊外にある保育所「さゆりこども園」。今は東京電力福島第一原発事故による放射性物質を考慮し、屋外活動を控えている。
 県内外に自主避難する園児の家族が相次ぐ。全園児の1割を超す16人が退園した。「原子力はみんなの希望だったのに...」。保育所を運営する社会福祉法人理事長、塩谷憲一(64)は目の前の状況が信じられない。

■双葉への思い
 塩谷は昭和45年から49年にかけて衆院議員天野光晴(旧本県1区)の秘書を務めた。46年に福島第一原発1号機が営業運転を開始し、その後2号機など運転開始が続いた時期だ。
 天野は福島第一原発から数キロの新山町(現双葉町)で生まれた。自伝によると、父親は町長代理助役を務めていたが、旧制双葉中(現双葉高)の誘致運動に私財を投じて破産寸前まで追い詰められた。借金の抵当に入れていた田畑を失った。
 天野は18歳のころ、福島市にセメント瓦工場を建てて移り住んだ。警察官や保険外交員などの職を転々とし、県議を経て33年、2度目の挑戦で衆院議員に初当選した。51歳だった。「開発が遅れた福島県を何とかしたい」と心に決めていた。
 自らの選挙区は県北地方から郡山市にかけての中通りだった。しかし、旧本県3区の双葉郡内の集まりにもまめに顔を出した。塩谷は「古里への愛着が特別に深かった。自分の選挙区での約束を断ってでも双葉郡に行くことがあった」と思い起こす。
 所属する自民党・河野派の同志に、わが国の原子力開発に深く関わった人物がいた。後に首相となる中曽根康弘だった。天野が初当選した衆院選で応援に来てもらって以来の付き合いで、中曽根が旗揚げした派閥にも参加した。

■阿武隈総合開発
 「浜通りには魚はたくさんいるが、勤める場所がない。(原発でつくった)電気を東京に売り、その金で生きていくしかねえんだ」。塩谷は天野の口癖のような言葉が忘れられない。
 天野が思い描いたのは、原発に不可欠な水の供給源である海と、手付かずの広大な敷地だった。夢はさらに広がった。「電気を首都圏に送るだけでなく、電気を使う工場を誘致する」。阿武隈山地から浜通りにまたがる地域を振興させる「阿武隈総合開発」だ。天野が生涯を懸けて情熱を注いだ構想だった。
 その頃、東電は原発の建設用地を探していた。30年には本店社長室に原子力発電課を設置した。天野は周囲に話した。「東電はとてつもなくでかい会社だ。持ってくれば、みんなの生きる糧になる」
 当時、東電の副社長は木川田一隆。36年に社長に就く。天野の選挙区にある梁川町(現伊達市)出身だった。2人は切っても切れない関係になっていく。
   ◇    ◇
 原発立地を弾みに浜通りを栄えさせ、その効果を全県の発展に生かす-。県は戦後の高度成長に合わせ、発電所の建設による地域振興策を推し進めた。だが、東京電力福島第一原発事故はその道筋に方向転換を迫る。半世紀にわたる原発立県の系譜を探る。(文中敬称略)

カテゴリー:3.11大震災・福島と原発

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