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【立地の遺伝子2】経営陣と二人三脚 国策 郷里で実現へ

 「天野先生以外に誰の後援会長も引き受けるつもりはない」。昭和47年春、東京・紀尾井町のホテルニューオータニで開かれた衆院議員天野光晴(旧本県1区)の在京後援会の総会。初代会長を務める東京電力会長、木川田一隆は言い切った。
 木川田は天野の選挙区内の梁川町(現伊達市)で医師の三男として生まれた。東電創立10年後に社長となり、経営基盤強化に敏腕を振るっていた。一方、天野は当時、当選4回。建設族の道を歩み、後に国土庁長官、建設相を務める。
 秘書だった塩谷憲一(64)は毎朝、天野の背広の内ポケットにある議員手帳の中身を確認するのが日課だった。日程欄には木川田の頭文字「木」の字が並んでいた。

■方言で話す仲
 天野は戦後間もない22年の県議選で初当選した。知事大竹作摩の命を受け、東電本店に足しげく通った。東電が水利権を持つ猪苗代湖の利用などの調整が目的だった。
 「2人で会うときは方言で話した。『通訳のいらない仲』だった」。塩谷は天野と木川田の関係をこう表現する。木川田は酒があまり飲めないのに、よく天野との酒席に付き合った。「安い費用で電力を生み出せなければ、日本は世界との競争で勝ち目はない」。持論を熱く語る木川田の姿を塩谷は鮮明に覚えている。
 天野の自伝によると、発電所の立地による双葉地方の振興構想に対し、木川田は「原子力発電をやりたい」と言った。天野が「おれの郷里はどうだ」と双葉地方に水を向けると、「とても立地条件がいいから頼む」と応じた。
 天野は原子力に積極的だったが、新しいエネルギーを冷静に見詰める面も持っていた。「原子力は魔物だ。注意する必要がある」と口にしていた。塩谷は「原発の危険性も感じ取っていたからこそ海外の原発視察にも出掛け、勉強を欠かさなかった。しかし、原発誘致に迷いはなかった」と述懐する。

■元秘書が自問
 県議に当選して10年後の32年、天野は知事選に元衆院議員の佐藤善一郎を担いだ。初当選を果たした佐藤は天野の動きに合わせるように双葉郡への原発誘致の検討を始めた。
 天野は42年、科学技術政務次官に就く。原子力部門に関する政府の責任者の1人になった。43年3月の国会答弁が残る。
 「最近の原子力開発利用の進展は誠に目覚ましいものがある。今後のわが国の経済社会の進展に大きく貢献すると期待される」
 塩谷は秘書だった頃に思いをはせながら、自問する。「おやじが生きていたら、原発事故で苦しむ県内の状況を見て、何と言うだろう」(文中敬称略)

カテゴリー:3.11大震災・福島と原発

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