東日本大震災アーカイブ

古里取り戻す一歩に 住民束ね復興先導

自分が撮影したあの日の写真を見つめながら復興への思いをかみしめる鈴木さん

 東日本大震災から11日で1年。本県の復興への道のりは、いまだ険しく、遠い。大切な人や財産を失った被災者は、あらためて悲しみや苦しみを胸に刻み、前に向かって一歩踏み出す決意を固める。大好きな古里を取り戻すために。

■いわき市平豊間 鈴木利明さん(70)
 たけり狂った海鳴りが今も耳にこびりついている。昨年3月11日、いわき市平豊間で民宿「えびすや」を営んでいた鈴木利明さん(70)は、屋上から津波を見て言葉を失った。
 当時、豊間観光組合長を務めていた。組合加盟の7軒のうち、建物が残った民宿は1軒だけだった。震災の傷はあまりにも深い。震災後、組合は活動を休止せざるを得なかった。「また組合をつくる日のために...」。財産を整理し、その一部を残った民宿1軒に預けた。
 だが、1年が経過し、「夢を描けなくなったら終わりだ」と考えられるようになった。現在、住民の代表でつくる「ふるさと豊間復興協議会」の副会長を務める。地元の声をまとめ、行政に働き掛ける日々だ。伝統文化を絶やすまいと「安波さま唄」の復活にも取り組んでいる。
 あの日の記憶が消えることはない。激しい揺れの後、デジタルカメラをつかみ外に出た。海は目と鼻の先。津波に備え、堤防の切れ目を板でふさぎ、土のうを積んだ。顔を上げると異常な引き潮が目に飛び込んできた。
 妻末子さん(69)を高台に避難させ、自分は3階建ての民宿の屋上に駆け上がった直後だった。巨大な波が堤防を越えて家屋をなぎ倒す。見下ろすと同居している三女(39)ら数人が流されていく。「何でもいいからつかまれ」。声を振り絞った。三女らは救出された。
 今、自分が撮影した当時の写真を見詰め、誓いを立てる。「こんちくしょう、絶対に復興を成し遂げる。にぎわったあのころを取り戻してやる」


遺族会結成し前進

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浪江町遺族会の設立総会の資料をチェックする叶谷さん。傍らには妻緋佐子さんと2人で撮った写真が飾ってある

■浪江町請戸 叶谷守久さん(72)
 福島市の仮設住宅で暮らす浪江町請戸の相馬双葉漁協請戸支所長の漁師叶谷守久さん(72)は震災以降、人との接触を控える生活を送ってきた。津波で妻緋佐子さん=当時(71)=を亡くした心の傷は、それだけ大きかった。
 震災発生時、浪江町の請戸漁港の支所事務所にいた。「津波が来る」と直感。自宅から緋佐子さんを車で連れ出した。海岸から2キロほど離れた場所で車から降りた。海の方を振り向くと、高さ10メートルほどの黒い水の壁が見えた。瞬く間にのみ込まれた。自分は木の根に足が挟まり流されずに済んだが、緋佐子さんは見つからなかった。
 約1カ月後、車を降りた場所近くで遺体が発見された。すでに火葬され、骨つぼを渡されただけだった。「せめて自分の手で弔いたかった」。避難生活を強いる東京電力福島第一原発事故を呪った。
 水揚げした魚を市場で売り、壊れた網の補修もこなした緋佐子さん。「妻の支えがなければ漁師を続けられなかった」。仮設住宅には遺影と2人の写真を飾る。起きた時も、寝る前も写真に語りかける。2人でつくった思い出が話題だ。
 いつまでも内に閉じこもってはいられないことはよく分かっている。11日に発足する浪江町遺族会では会長に就く。「犠牲者の慰霊と復興に向け歩むきっかけにする。津波を後世に語り継いでいきたい」。震災1年を機に前を向くつもりだ。

■遺族会あす発足 250人参加見込み
 東日本大震災の津波などによる犠牲者の遺族でつくる浪江町遺族会は11日発足する。約250人が参加する見込みだ。
 東京電力福島第一原発事故で当初、救助や捜索活動ができなかったとして、遺族会として東電に慰謝料などの賠償を求める方針。

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