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帰還/広野からの報告(34)戻らぬ受注、人員 工業団地の早期除染期待

誰もいなくなった工場内を見詰める石田さん。にぎやかだったころの面影はない

 震災後、操業を再開したのは15社中12社だ。

 広野工業団地は常磐自動車道の広野インターチェンジに隣接する利便地にあり、さまざまな業種の15社が立地して広野町の雇用を支えてきた。
 大震災と原発事故で一時は全社が従業員を避難させた。しかし、緊急時避難準備区域の指定だったため多くの企業が施設や設備を修理して再開にこぎ着けた。
 電子回路基板の製造大手「メイコー」(本社・神奈川県)の福島工場も広野での操業継続を選んだ。工場長の松本光二さん(48)は「従業員のみんなを早く震災前の生活に戻してやりたい」と唇をかみしめる。
 震災では事務棟の天井が崩落、工場の配管が断裂するなど壊滅的な被害を受け、原発事故で避難を強いられた。だが1カ月半後には決死の思いで幹部社員と工場に戻り、わずかな人数で損壊した工場を整備。従業員に戻ってもらうため、不動産屋を駆けずり回って住まいを確保した。
 昨年7月から本格的に操業を再開したが、受注量は今も震災前の7割程度にとどまる。現在の従業員は135人で震災前の160人に届かない。原発で再び異変があれば工場は止まり納期が狂う。それを不安視する取引先からの受注が戻らない。製品の放射線量に問題はないが、1年たった今も風評被害が拭い切れない。
 敷地内の線量は高い場所で毎時0.6マイクロシーベルト程度。待たれていた除染がようやく四~6月に行われる見通しになった。「線量が下がれば、従業員にとっても、取引先からも安心してもらえるのではないか」と期待している。

    静まりかえったままの工場もある。

 団地内にある水産加工食品製造「三豊」(本社・東京都)の福島工場には工場長代理の石田正治さん(53)ただ1人が管理のため残る。「もう誰もいない。前のようにみんなと仕事がしたい」。言葉の端々にやりきれなさがにじむ。
 福島工場は平成2年に操業を開始し、中華クラゲやイカの塩辛など同社の生産量の約4割を担っていた。原材料は主に海外産で、福島県の地元の海産物は使っていない。それでも「ラベルに『双葉郡』と記されていれば消費者には受け入れられない」と判断。昨年4月にパート従業員を全員解雇し、社員も本社や函館工場などに移った。
 冷凍倉庫には出荷できない数百トンもの製品が眠る。「こだわって作っていた。東電はその仕事に携わっていた人の気持ちまでは理解できていない」。空調のファンの音しかない工場に通う毎日はむなしい。役場が戻っても工場は何も変わらない。「再開したら戻ってきて」と声を掛けたパート従業員との約束が守れるか不安もよぎる。「諦めたくない」とつぶやいた。
 町の商工観光分野を担当する建設課産業グループ主任主査の久田宗俊さん(44)は「12社が操業してくれているのは、雇用の面でも大きい」と感謝する。一方、原発事故直後から工業団地内の企業の業績が悪化している現状には危機感を抱く。
 「風評被害の払拭(ふっしょく)のために、町としても県外でのPR活動などに取り組みたいが、今のままでは限界はある。まずは何よりも除染が重要。早期の完了を目指す」と話す。各工場の従業員もほとんどがいわき市から通う。さまざまな条件が整わなければ、町がかつてのような生活の場となる日は遠い。

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