東日本大震災

「3.11大震災・福島と原発」アーカイブ

  • Check

【安全への問い掛け7】東電、予兆生かせず 県と立地町の不信高まる

 東京電力は事故の予兆をつかんでいながら、判断を誤った。その結果、国内で前例のない重大な事故を招いた。
 福島第二原発3号機は昭和63年暮れからトラブルが相次いだ。原子炉内の再循環流量の揺らぎが通常と比べて一時的に大きくなった。また、タービンと原子炉圧力容器を結ぶ主蒸気系統の弁に不具合が見つかった。原子炉の停止、運転再開を繰り返した。
 年が明けた1月1日午後7時2分、原子炉の再循環ポンプ2台のうち、1台が異常な振動を示し、警報が鳴った。ポンプの速度を下げたところ、振動は警報設定値を下回った。原発の運転は継続された。
 しかし、5日後の6日午前4時20分、振動は再び大きくなる。原子炉はようやく手動停止された。調査の結果、再循環ポンプが壊れ、部品の金属片などが原子炉などに流れ込んだ。県内で原発が初めて稼働してから18年が過ぎようとする中で、最も大きなトラブルの1つだった。

■再循環ポンプ
 福島第二原発3号機で最初の警報が鳴り響いたころ、県保健環境部長を務めていた中川治男(79)は家族と正月休みを過ごしていた。「連絡はなく、警報の発生を知るよしもなかった」と振り返る。
 6日、東電は正午すぎに原子炉の停止操作を開始した。県庁に勤務中の中川の元にようやく一報が入った。「7日に原子炉を停止し、予定していた定期検査で調べる」という通報内容だった。
 福島民報の7日付朝刊の社会面には「再循環ポンプに異常」の見出しがあるものの、それ以降、当分の間、目立った続報はなかった。
 約1カ月後の2月3日。状況は一変する。再循環ポンプ内で、重さ約100キロの水中軸受けリングが脱落し、ポンプの羽根車などが壊れていた。軸受けの取り付け用ボルトや座金も外れていた。中川は「県、そして県民の原発に対する不安や懸念が高まるきっかけとなった」と思い起こす。

■過去のトラブル
 再循環ポンプは原子炉圧力容器内を流れる冷却水を循環させ、その流量の増減によって原子炉の出力を調整する。
 福島第二原発の1、2、4号機も以前は3号機と同じタイプの軸受けだった。その損傷事故は、1号機で59年11月と63年7月に起きていた。東電は定期検査に合わせて交換してきたが、残る3号機は1月7日からの定期検査で交換する予定だった。
 事故の予防対策もさることながら、事故後の対応も二転三転した。東電は当初、原子炉内に「金属は流入していない」と説明していたが、後の調査で約30キロ分の金属片などが原子炉圧力容器などに広がったことが分かった。
 さらに東電は「部品回収に全力」との姿勢から「(部品)未回収でも運転再開はあり得る」と方針を転換しようとした。しかし、県などの反発を受けて即座に改めた。県や立地町、県民は不信感を増幅させた。
 平成元年7月に県保健環境部長に就任する県東京事務所長の平原正道(76)は、報道で知る東電の対応にあきれた。「多少の異常があっても、東電は定期検査まで待てばいいと考えていた節があったのではないか」。後に県として事故を検証する中でも、平原は東電の体質に憤りを感じることになった。

■「室」から「課
 国は原発の設置・建設から運転、廃炉に至るまでの権限を一元的に握る。事故を招いた東電の体質を見過ごした国に対しても県や立地町の不満が高まった。県と立地町は東電と安全協定を結び、立ち入り調査などは可能だ。だが、運転の是非や安全規制対策に直接は関与できない。
 「県、町、住民の立場で国に物を申す必要がある。そのためにも県の専門部署を充実するべきだ」。中川は県三役に組織強化の必要性を説いた。
 県は昭和47年6月、原子力の安全対策部門として県環境保全課に企画調整班を設けた。原子力対策係を経て53年4月に原子力対策室に変わった。
 中川は課に格上げし、職員を増やすことを考えた。再循環ポンプ事故から3カ月後の平成元年4月、11人体制による原子力安全対策課が発足した。
 初代課長に就いたのは山口忠宏(70)。県相双行政事務所次長、県企画調整課主幹などを務めた。新たな職場で山口を待っていたのは、原発の安全対策をめぐって国や東電とせめぎ合う日々だった。(文中敬称略)

カテゴリー:3.11大震災・福島と原発

「3.11大震災・福島と原発」の最新記事

>> 一覧

東日本大震災の最新記事

>> 一覧