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【安全への問い掛け14】県が国策の議論開始 核燃料サイクル懇発足

核燃料サイクル懇話会の初会合。県は国策への問い掛けを本格的に始めた=平成9年7月、福島市・知事公館

 「県という、一地方自治体が、国のエネルギー政策をどこまで議論できるだろうか」。平成9年7月29日。県原子力安全対策課主幹兼課長補佐の高倉吉久(69)は会議を前に、机の上の資料を見つめた。
 県庁に隣接する知事公館には、知事の佐藤栄佐久をはじめ三役、各部長らが顔をそろえた。
 県は幹部職員による「核燃料サイクル懇話会」を設置した。会議はその初会合だった。使用済みの燃料を加工して再び使用するプルサーマル計画を含む国のエネルギー政策を、県の立場で検討する狙いが込められていた。
 発端は5カ月前にさかのぼる。2月21日、電力各社でつくる電気事業連合会は社長会を開き、プルサーマル実施計画を決定した。3月6日に東京電力社長の荒木浩は県庁で佐藤に面会した。2年後の平成11年に大熊、双葉両町にまたがる福島第一原発の3号機で東電として最初にプルサーマルを導入する方針を示した。翌7日は原発立地の双葉郡8町村のうち、5町に協力を要請した。
 「原発の安全規制は、国が法律に基づき事細かに定めている。核燃料をはじめ、機械、溶接、土木など、裾野の広い原子力の世界に対し、県には精通する職員が少ない」。原発には先端技術が集約されている。しかも、権限は国が握る。高倉は、地方が独自に議論することに壁を感じていた。

■古里からの誘い
 高倉は南相馬市出身で、原町高を卒業後、東北大工学部に入学した。専攻は原子核工学で、その一期生だった。
 「資源の少ない日本で、不可欠となるエネルギーだ」。子どものころから聞かされた。機械、電気などが注目を浴びていたが、今後は原子力の時代が訪れると感じていた。大学院の修士課程を終え、民間で研究を続けながら、東京工大の博士号を取得した。
 そんなころ、古里から誘いがあった。昭和51年に知事に就任した松平勇雄だった。「福島県には1つの国が持つような数の原子炉が建設される。ぜひ力を貸してくれないか。県で原子力に携われば、最先端の技術と知識に触れることもできる」。松平は自ら、高倉に会い、説得した。
 「県民の健康と安全を守り、故郷の振興につなげたい」。高倉は県職員としての生活を大熊町にある県原子力センターでスタートさせた。

■線量の記憶
 県原子力センターは福島第一原発から5キロ余りの場所にある。
 高倉は原発周辺の環境放射能の監視・測定、原発の立ち入り調査、トラブル時の通報連絡、広報活動などに取り組んだ。ある日、松平がセンターを訪れ「頑張ってくれよ」と励ましてくれたことを覚えている。
 センターには6年間、在籍した。放射線の測定で県内各地を訪れた。「その土地がどんな地形だったか、どんな線量だったかを今でも覚えている」。当時は、中国が非公開の核実験を重ね、線量の変化は数値にすぐに表れた。実験後は県内でも数値が大きく跳ね上がった。「当時は珍しがられたモニタリング調査が、現在はどこでも行われるようになるなんて...」。県土が福島第一原発事故による放射性物質で汚染されたことに心を痛める。

■人選
 県が設けた核燃料サイクル懇話会は、本県に原発が立地して以来、地方から国のエネルギー政策に対して意見をまとめる初めての場といえた。
 原子力の推進派、反対派、慎重派、電力会社、国、原発立地地域...。懇話会の開催を前に、県の担当者は講師の選任や議論の進め方に悩んでいた。高倉は大学以来、培ってきた経験や知識を生かした。(文中敬称略)

カテゴリー:3.11大震災・福島と原発

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