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【推進と悔恨のはざま6】稼働前、社員手探り 不具合、停止相次ぐ

1号機の引き渡し式でGEの所長から鍵を受ける今村所長(左)=東京電力「福島第一原子力発電所45年のあゆみ」から

 日本原子力産業協会理事長の服部拓也(68)は、東京電力福島第一原子力発電所に勤務経験がある。機械課の担当社員と副長、所長の計3回、合わせて5年半ほど働いた。
 太平洋戦争中の昭和19年、中国・上海で生まれた。大阪で幼少時代を過ごし、昭和38年に東大に進んだ。専攻は機械工学を選んだ。当時、機械工学を学んだ多くの学生は機械メーカーへの就職を希望した。
 発電所の運転管理が中心の電力会社を希望する学生は少なかった。原子力発電のシステムに関心を抱き、大学院を経て45年、東電に入社した。


■米国製
 川崎火力発電所での研修を終え、11月に福島第一原発に配属された。みぞれが降る中、大熊町の社宅に引っ越した。JR常磐線の急行列車は朝晩1本ずつしか停車しない地域だった。
 福島第一原発は翌年3月に控えた1号機の営業運転に備え、試運転を続けていた。東電にとって初めての原発で、心臓部に当たる原子炉は、米国ゼネラル・エレクトリック(GE)から導入した。出力46万キロワットの沸騰水型軽水炉(BWR)だった。
 当時、国内の原子力産業はまだまだ発展途上だった。東電社員も運転の技術や経験を持ち合わせていなかった。GE社員の指導を受けながら手探りで技術の習得に励んだ。「未知の設備」である原発の運転には困難が付きまとった。

■自責の念
 機械の不具合やスクラム(緊急停止)が頻発した。「毎日のようにスクラムした。大丈夫かと心配したほどだった」。服部は社員が試行錯誤を繰り返していた当時を顧みる。原子炉が停止する度に問題点を確認し、対策に取り組む日々が続いた。
 社員の技術が高まることで、スクラムは次第に減少した。昭和46年3月22日から「出力100%・100時間テスト」が行われた。大きなトラブルは生じなかった。テストが終了した26日、東電の所長、今村博は、GEの現地所長から1号機の鍵の引き渡しを受けた。
 服部は入社から間もない時期で、運転に直接携わっていなかったが、営業運転のスタートに安堵(あんど)した記憶が残っている。
 福島第一原発は昭和54年10月までに全6基が出そろった。服部は機械課副長として6号機の建設にも携わった。
 相馬野馬追、富岡町・夜の森の桜並木、浪江町の請戸漁港...。慣れ親しんだ風景が浮かぶ。原発事故で避難している住民の中には親しく付き合った人もいる。「申し訳なく、痛恨の極み。責任は逃れようがない」。服部は深い自責の念を抱き続ける。(文中敬称略)

カテゴリー:3.11大震災・福島と原発

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