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【国策への異議4】「防げず、申し訳ない」 かつての仲間が脳裏に

福島第一原発事故の直後に、浜通りを訪れた際の調査結果などを説明する安斎さん

 平成23年3月16日。東京電力福島第一原発事故から5日後だった。楢葉町の宝鏡寺住職、早川篤雄(73)の携帯電話が鳴った。
 電話番号に見覚えはない。「反対運動に関わってきたのに、こんな事故が起きてしまって。食い止めることができず、申し訳なかった」。声の主は、立命館大名誉教授の安斎育郎(72)。「福島原発訴訟」の支援者の1人だった。早川ら住民の安否が気に掛かり、つてをたどって電話番号を探し続けた。
 「推進派の学者に言われるなら分かるが、まさか安斎先生から謝りの言葉を聞くとは思わなかった」。早川の頬は涙でぬれていた。

■第二の故郷
 東京生まれの安斎は終戦の前年、両親の故郷、二本松市に疎開した。4歳だった。9歳まで市内の小学校に通い、野山を駆け回った。「都内に戻ってから、駆けっこはクラスで一番、速かった。二本松で足腰を鍛えられたから...」と振り返る。
 都内の両国高校を卒業後、東京大に進んだ。同大が全国に先駆けて作った工学部原子力工学科の一期生だった。放射線防護学を専門に研究し、後に日本科学者会議の常任幹事を務めた。
 昭和48年、本県で全国初の原発設置に関する公聴会の開催が決まった。安斎は、政府が推進した原子力政策に批判的な立場の専門家として知られ始めていた。「第二の郷里を守りたい」。公聴会に備える早川の協力要請に対して、無報酬での支援を決意した。

■北上
 福島第一原発事故の直後、安斎は多くの報道機関から取材を受け、かつての仲間が脳裏に浮かんだ。スケジュール帳で唯一、空白だったのは事故から1カ月余りが過ぎる4月16日。偶然にも自らの誕生日だった。政府が警戒区域などの避難指示区域を設定する5日前だった。
 JR常磐線に揺られながらいわき駅に向かった。途中で余震とみられる地震が起き、列車が止まった。大震災がまだ継続していることを思わせ、怖さを感じた。
 いわき駅の改札には作務衣(さむえ)姿の男性が立っていた。早川だった。浜通りを北上し、原発が立地する双葉郡に入った。
 安斎は放射線を測る機器を携えていた。約6時間にわたる調査で、原発事故による放射線を各地で記録した。
 数日後、安斎から早川の避難先に絵が届いた。「避難先では寺の仏も拝めない」。そんな早川の嘆きを覚えていた安斎が描いた仏の絵だった。(文中敬称略)

カテゴリー:3.11大震災・福島と原発

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