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【国策への異議7】〝逆風〟の中で提訴 表立った参加見送りも

集大成された裁判資料。40年近く前に始まった「福島原発訴訟」の軌跡を示す

 東京電力福島第一原発事故から数カ月後。福島市の弁護士、安田純治(81)は自らの事務所の倉庫から、ある資料を探し出した。
 かつて弁護団長を務めた福島第二原発の原子炉設置許可取り消し請求訴訟の関係記録だった。その量は、段ボール箱で8箱分ほどあった。
 事故から丸1年が過ぎようとしていた平成24年1月、その書類は「福島原発設置反対運動裁判資料」(発行所・クロスカルチャー出版)として、刊行が始まった。
 第1巻冒頭の文書は昭和49年1月30日付。東電の原子力・火力発電所の建設に向けた公有水面(海面)埋め立て免許についての審査請求書だった。
 当時、パソコンやワープロはまだ普及していない。手書きの記録を含む書類は、40年近い歳月の流れを読み手に感じさせる。最高裁まで争われた「福島原発訴訟」の出発点だった。

■原告を募る
 48年12月、県は東電の公有水面埋め立て申請を許可した。2日後、「原発・火発反対県連絡会」は許可取り消しを申し入れた。
 連絡会には、楢葉町の宝鏡寺住職で、高校教師の早川篤雄(73)や、同じく高校教師で富岡町の小野田三蔵(75)らが参加していた。
 翌49年、連絡会は裁判への取り組みを本格的に始めた。浜通り各地の公民館や集会所などで、住民に原発の危険性を訴える集会や学習会を開いては裁判に参加する原告を募った。町の中心部などに宣伝カーを出し、集会の開催日時と場所を知らせた。
 その一方で、集会が開かれた翌日には、東電が原発の安全性をPRする会合を開くこともあり、推進と反対の双方の関係者が活発に動いた。

■404人
 安田も福島市から集会などに駆け付け、支援した。だが、住民の中には、集会には顔を出しても、訴訟への参加を見送る人もいた。
 安田によると、親戚に借金があり、東電からの補償金で返済するために、やむを得ず原告団への参加を断念する人もいた、という。住民の1人は集会の終了後、安田の元に駆け寄り「先生と志は変わらないが、裁判への参加は勘弁してほしい」と小声で伝えてきた。
 「政府、県、町が推進する原発誘致に対抗するには、それなりの勇気が必要だった。普通の人ならば、おじけづいてしまう逆風があった」。小野田は反対運動に加わるのをためらう当時の住民の心境を代弁する。
 安田は「原発の危険性を住民は漠然と分かっていた。集会などの参加者は合計で1000人を超え、みんなが賛同していた。しかし、表立って反対を表明する人は少なく、多くの人は訴訟に二の足を踏んだ」と振り返る。
 昭和50年1月、小野田を原告団長とする浜通りの住民404人は福島第二原発の原子炉設置許可の取り消しを国に求め、福島地裁に提訴した。約4万字に及ぶ訴状は「福島原発設置反対運動裁判資料」第1巻に掲載されている。(文中敬称略)

カテゴリー:3.11大震災・福島と原発

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