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【国策への異議10】裁判は子孫への言葉 弁護士の励ましが支え

一審の判決結果を支援者や報道関係者に示す早川さん=昭和59年7月、福島地裁

 福島原発訴訟は昭和50年1月の提訴後、9年半にわたり、福島地裁で45回の口頭弁論を繰り広げた。
 59年7月23日。福島地裁には午前8時すぎから原告団や支援者、報道関係者ら約100人が傍聴券を求めて列をつくった。
 午前9時25分に裁判長が庁舎に入り、続いて白いタスキを肩に掛けた原告団長の小野田三蔵(75)ら原告団、弁護団の合わせて二十数人が地裁正面から3階の1号法廷に向かった。
 開廷は午前10時。裁判長が判決文を読み上げた。「主文、原告の請求を棄却する」。淡々とした口調だった。傍聴席では軽いどよめきが湧き上がった。
 原告団事務局長の早川篤雄(73)は途中で退廷した。庁舎の外には、原告や支援者約20人が待ち構えていた。「不当判決」。早川が垂れ幕を示すと、支援者からは、ため息が漏れた。

■失いかけた情熱
 判決が下される5年前の昭和54年3月、アメリカのスリーマイル島で原発事故が起きた。事故後初めての原発訴訟の判決として全国から注目されていた。
 だが、原告から見た審理の行方は、被告の国側が勝っているように映った。弁護団長の安田純治(81)は「訴訟に関わる人的態勢や情報量は、国側が圧倒的に優位だった」と思い起こす。原発反対を支持する世論の広がりも感じられなかった。
 「裁判の過程で『われわれの望むような判決は出ないな』と、うすうす感じていた」。早川は振り返る。闘志を燃やして提訴したものの、原告の中には、裁判への情熱を失いかけた住民もいた。

■「最後まで」
 「勝つ見込みはないんじゃないか。裁判官がわれわれの意見に耳を貸すとは思えない」。ある日、早川は弁護団に弱音を吐いた。
 弁護団に加わっていた福島市の弁護士、鵜川隆明が穏やかに語り掛けた。「裁判は、子孫へのメッセージだと思えばいいんですよ」。早川は目から、うろこが落ちる思いだった。原告団にとって、鵜川の言葉は、最高裁まで続く闘いの支えとなった。「最後までやるしかない」。原告団は決意した。

■伽羅の線香
 原告団を支援した元県議の伊東達也(71)と早川が、鵜川の他界を知ったのは、平成19年11月の告別式から数カ月後だった。
 「鵜川先生の御霊前に線香を上げようと思い伺いました」。2人は鵜川の自宅を訪ねた。家族が留守だったため、伊東は名刺の裏にメッセージを書き、玄関に挟んだ。早川は伽羅(きゃら)の線香を届けたのを記憶している。数日後、鵜川の妻から伊東の元に、お礼の手紙が寄せられた。
 「寡黙だったが、内に秘めたものを持った方だった」。2人は振り返る。
 鵜川の他界から3年4カ月後、東京電力福島第一原発事故が起きた。
    (文中敬称略)

カテゴリー:3.11大震災・福島と原発

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