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(44)ストレス 仮住まい 生きがい喪失 窯も家もあるのに 4代目、心労重なる

避難先で走り駒の絵付けをする陶さん。大堀相馬焼の再興を目指していた=北塩原村、平成23年

 「走り駒」が描かれた器を窯から取り出す。「ピーン」という澄んだ音が響き、「青ひび」が入る。国指定伝統的工芸品「大堀相馬焼」の大陶(だいとう)窯4代目で陶緑(すえみどり)商店主の陶(すえ)俊明さん=当時(69)=にとって、窯出しの音は、この上ない喜びだった。
 妻絹子さん(65)と共に伝統を守り続けてきた。長男の俊弘さん(41)も窯を継ぐ決意を固め、修業に励んでいた。嫁の千友紀さん(41)の存在も頼もしかった。「大陶窯は安泰だ。70歳になったら引退しようか」。俊弘さんへの技術指導に余念がなかった。
 平成23年3月11日。大陶窯は東日本大震災の強い揺れに襲われた。店内に陳列していた器はばらばらと床に落ち、割れた。幸いにして窯は無事だった。
 冷却機能を失った東京電力福島第一原発は原子炉建屋で水素爆発を起こし、大量の放射性物質をまき散らした。「避難するしかない」
 先祖から受け継いできた工房や、生まれ育った土地を、これほど長期にわたり離れることになるとは思いもしなかった。「少したったら帰れるだろう」。そう漠然と考えていた。

 原発事故発生後、福島第一原発から北西に約10キロの距離にあった工房兼自宅は立ち入りが禁止される警戒区域に設定された。帰れる日は見通せなかった。上薬に使う石材は汚染され、江戸時代から続いてきた大堀相馬焼は生産休止に追い込まれた。
 俊明さんは一時帰宅で、代々伝わる手本絵を持ち出した。「伝統を絶やすわけにはいかない」。走り駒の絵付け技術を衰えさせないよう北塩原村や大玉村の避難先でも筆を走らせた。
 一方で俊弘さんに「浪江にはもう帰れないからな」と自分に言い聞かせるように話したことがあった。戻れる日を待つか、新天地で器作りを再開するか-。俊明さんの心は望郷の念と諦めのはざまで揺れていた。
 24年7月、大堀相馬焼協同組合が二本松市の小沢工業団地に共同窯を備えた仮設工房「陶芸の杜おおぼり二本松工房」を開いた。散り散りになっていた窯元が再起を期して集った。大玉村の借り上げ住宅に腰を落ち着けていた俊明さんと絹子さんも、懐かしい面々と手分けして絵付けや上薬掛けなどをした。
 俊明さんは久しぶりの陶器の感触に心を躍らせた。共同窯とはいえ、大堀相馬焼の再興に道が開けた。しかし、自分の窯とは勝手が違う。「思い描いているものがなかなかできない」と悔しがった。
 浪江の工房なら満足のいく器を焼き上げることができるのに...。工房兼自宅は地震で一部は傷んでいるものの、帰れさえすればすぐに制作を再開できる。そこには、使い慣れた窯、独自に調合した上薬がある。納得のいく器を作ることは容易にできたはずだ。
 代々続いてきた大陶窯を自分の代で終わらせることになるかもしれない。「浪江に帰りたい」。4代目としての責任が強くなればなるほど、焦りが増した。得意先の注文を受けることさえできずに苦しんでいた。

 25年7月、俊明さんは突然、倒れた。焼き物好きが高じて昔の土器に興味を抱くようになり、二本松市で遺跡の発掘作業に従事していた。救急車で福島市の福島医大に搬送された。病院に向かう絹子さんは「いつの間にか心労をため込んでいたんだ」と避難の長期化を恨んだ。
 絹子さんは病室で見た心電図の画像が忘れられない。脈拍を示す線は横に伸びていた。大陶窯の再興を果たせないまま、俊明さんは息を引き取る。
   ×    ×
 原発事故による避難住民は仮設住宅や借り上げ住宅で不便な生活を強いられている。狭い居住空間、コミュニティーの崩壊...。地震による自宅の損傷はなくても、放射線量が高く戻ることができない住民は多い。長期化する避難が心労を生む。「原発事故関連死」。事故から2年9カ月を経過する今も大きな課題として横たわる。

カテゴリー:原発事故関連死

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