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(45)ストレス 仮住まい 生きがい喪失 不満、苦情に耳傾け 行政区長として絆守る

陶さんが身に着けていた麦わら帽子。大堀相馬焼の走り駒を自分で描いた

 「せめてもの救いは、大好きな遺跡発掘現場で亡くなったことかな」
 浪江町小野田の陶(すえ)絹子さん(65)は、夫の俊明さん=当時(69)=が倒れた当時、二本松市のトロミ遺跡でかぶっていた麦わら帽子を大事に保管している。帽子の側面には国指定伝統的工芸品「大堀相馬焼」の「走り駒」が大きく描かれている。大陶(だいとう)窯四代目の俊明さんが、油性ペンを走らせた。窯を奪われた避難先でも窯元としての誇りを持ち続けていた。
 発掘作業には平成25年5月末から携わった。「体を使って、筋肉を付けて、好きな仕事をさせてもらうなんてありがたい」と喜んでいた。夕方、大玉村の借り上げ住宅に戻ると、玄関先の椅子に腰掛けて缶ビールを1本だけ飲むのが日課だった。遺跡で古墳時代に使用された土師(はじ)器が見つかったことなど一日の出来事をうれしそうに話してくれた。
 寝ても覚めても焼き物だった。土師器の発掘現場で最期を迎えたのは陶芸家として本望だったかもしれない。「でも、そもそも避難しなければ古里の外で死ぬことはなかった」。絹子さんは割り切れない。
 俊明さんは大堀相馬焼の生産休止で生きがいを失っていた。東京電力福島第一原発事故前から務めていた浪江町の小野田区長としての責任も負っていた。「子どもが生き生きと、年寄りが悠々と暮らせる世の中がいい」と口癖のように繰り返していたが、全町避難を強いられた行政と住民のパイプ役は気苦労が多かった。
 23年3月12日に東京電力福島第一原発1号機で原子炉建屋が水素爆発した際、俊明さんは「ドーン」という爆発音を聞き、原発から煙が上がったのを見たが行政区内にとどまった。逃げ遅れた人がいないか一軒一軒見て回っていた。消防団の警戒活動に出ていた長男俊弘さん(41)と一緒に同町津島中に避難したときには夜が更けていた。
 原発事故で小野田区の約70世帯は県内外にばらばらになった。行政区のつながりを維持したいと避難で転々とする中も名簿を作り、時間を見つけては安否を確認した。浜通り育ちの俊明さんにとって、会津地方などの雪国で避難先を回るのは楽ではなかった。沖縄に避難した仲間には「こっちは寒くなったけど、そっちはどうだ」と電話を入れて励まし合った。
 だが、避難生活は長期化の一途をたどった。警戒区域にある古里は遅々として除染が進まず、自宅に戻れる日がいつになるのか分からない。心身ともに疲弊した住民から仮設住宅の不満、除染方法や仮置き場の設置場所などをめぐるさまざまな苦情が数多く寄せられるようになった。
 「避難先の区長は大変だ」。俊明さんが漏らしたことがあった。それでも「同じ被災者だから気持ちは分かる」と住民の声に対し親身に耳を傾けた。
 「この車があれば冬でもみんなの所を回れるぞ」。俊明さんは雪道や悪路でも走りやすい小型のスポーツタイプ多目的車を注文していた。
 納車予定日は7月14日。亡くなった2日後だった。楽しみにしていた車に乗ることも、小野田区の住民を訪ねることもできなくなった。絹子さんはその無念を思い、俊明さんの運転免許証を車のダッシュボードに入れている。「運転していても、ふとした瞬間に夫の言葉や笑顔が浮かんでくる」
 絹子さんが避難生活で亡くしたのは、夫だけではなかった。

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