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(46)ストレス 仮住まい 生きがい喪失 育ての親認定されず 60年一緒に暮らしても

福島市の避難所にいたころの大場さん(中央)と俊明さん(左)、絹子さん(右)。大場さんは避難所を転々とし歩けなくなった

 東京電力福島第一原発事故で避難を強いられた浪江町の大堀相馬焼「大陶(だいとう)窯」の4代目、陶(すえ)俊明さん=当時(67)=と妻の絹子さん(65)にとって、福島市のパルセいいざかは3カ所目の避難所だった。俊明さんは、60年間一緒に暮らしてきた育ての親、大場有作さん=当時(95)=と行動を共にしていた。幼くして両親を亡くした俊明さん。大場さんは実の父と変わらぬ存在だった。
 避難後、2週間余りが過ぎた平成23年3月27日夕だった。大場さんが急に熱を出した。救急車で福島市内の病院に搬送され、そのまま入院した。
 思い返せば、3月12日朝に避難を始めてから食べ物や飲み水は十分でなかった。小雪が降る中、底冷えする避難所を転々としてきた。老体は悲鳴を上げていたに違いなかった。

 3月12日朝、福島第一原発から10キロ圏内に避難指示が出された。浪江町は北西の津島地区を目指し町民避難を開始した。
 絹子さんは、大場さんと長男俊弘さん(41)の嫁千友紀さん(41)を軽乗用車に乗せて114号国道を西に向かった。避難先となった津島中の校庭は雪でぬかるみ、大場さんを避難所の体育館まで連れて行くことができなかった。近くの診療所に車椅子を借りに行くと、高齢の大場さんを見た看護師が、厚意で津島地区の自宅に泊めてくれることになった。
 津島地区の114号国道は避難者の車が数珠つなぎになり、絹子さんは大場さんを預けた看護師宅と津島中を歩いて行き来していた。自衛隊員が緑色の車両で通り掛かり、国道付近にあふれた住民に「車の中に入りなさい」とだけ繰り返して福島市方面に走り去った。小野田区長だった俊明さんは区民の安否を確認するため近くの避難所を回っていた。
 翌13日、看護師宅には30人近くが身を寄せていた。原発で働いていた男性が「津島にいてはダメだ」と言い出した。俊明さんと絹子さんは大場さんを連れて、さらに西に逃げることにした。午後9時すぎ、川俣町の川俣小に着いたが、既に満員だった。俊明さんは「おじいさんがいる。何とか置いてくれ」と頼み込んだ。大場さんは暖房のある教室で一夜を明かしたが、衰弱は隠せなかった。
 14日、福島市の病院で診察を受けた。浪江の自宅で自立した生活を送っていた大場さんは、歩行が困難になっていた。
 福島市の病院に入院してから大場さんは「困ったことになったもんだ」と繰り返した。俊明さんは窯から離れ元気をなくしていった。「夫の姿を見るのはつらかったはず」と絹子さんは振り返る。大場さんは、息子同然の俊明さんが情熱を注ぎ込んだ器を眺めるのを生きがいとしていた。荷造りなど可能な範囲で俊明さんを手伝っていた。原発事故という未曽有の災害が、大場さんから平穏な生活と大好きな大堀相馬焼を奪った。約1カ月半後の5月19日、大場さんは息を引き取った。肺炎と老衰が死因とされた。

 23年6月、二本松市にある浪江町役場の二本松事務所に俊明さんの姿があった。原発事故による避難がなければ大場さんを失わなかった-。災害弔慰金を申請するためだった。
 「大場さんと俊明さんは養子縁組していない」。担当者は弔慰金の申請を受け付けることができない理由を説明した。
 「お金が欲しいわけじゃない。原発事故による避難で命を落としたことを認めてほしいだけなのに...」。その思いは法制度の壁に突き返された。しゃくし定規な対応はわだかまりとなった。

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