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(47)ストレス 仮住まい 生きがい喪失 「笑顔でいるのが一番」 夫の残した言葉支えに

俊明さんが記していた日誌。残りのページは絹子さんが引き継いだ

 浪江町小野田の陶(すえ)絹子さん(65)は、大堀相馬焼「大陶(だいとう)窯」の4代目で夫の俊明さん=当時(69)=に先立たれた7月から心にぽっかりと穴があいたままだ。
 「大海に突然、放り出されたような感じ。一人は寂しいもんだね」
 俊明さんと昭和46年に結婚し、窯元の嫁として無我夢中で陶緑(すえみどり)商店を切り盛りしてきた。東京電力福島第一原発事故が起きた平成23年は店の100周年の節目だった。夫や長男の俊弘さん(41)らと焼き物を作ることが生きがいだった。
 古里を追われ、大陶窯は生産休止に追い込まれた。避難先を転々とした末に一家の大黒柱と、長年同居した俊明さんの育ての親、大場有作さん=当時(95)=の二人を亡くした。「原発事故さえなければ、大事なものを何も失わなかった」。考え出すと悔しくて眠れない。

 避難先の北塩原村のペンションと大玉村の借り上げ住宅では、夫婦だけの暮らしとなった。俊明さんは「なんだか恥ずかしいな」と照れ笑いした。
 二人で暮らすようになってから、絹子さんは褒められることが多くなった。遺跡の発掘作業に向かう俊明さんに煮物や卵焼きを詰めた弁当を持たせると、夕方には「うまかった。いっぱい野菜を食べさせてくれてありがとう」と照れもせず感謝された。絹子さんが「肉が入ってなくてすいませんね」と冗談めかして言うと笑顔が戻ってくる。
 長期化する避難生活で心身ともに疲弊していても、互いを尊重し、少しでも明るく暮らそうと考えていたに違いなかった。「そういう気遣いをする人だった」。夫の言葉や生き方を思い出し、ほれ直した。
 俊明さんが記していた日誌を引き継いで、その日の出来事を書いている。俊明さんの文字を見ると、楽しかった思い出ばかりがよみがえる。
 俊明さんが急逝する1週間前の7月5日の日誌には、こう記されていた。
 《俊太郎が食べ物を俊弘、小生に分けてくれる動作をした。感動。》
 愛知県に避難した長男俊弘さんの元を訪れた。1歳の誕生祝いを迎えた孫の俊太郎ちゃんに一升餅を背負わせ、健やかな成長を願った。俊明さんは録画した画像を見返しては目尻を下げていたという。
 俊明さんが使っていた携帯電話の電源は入れたままにしている。時折、知人や得意先から電話がかかってくる。励ましの言葉をもらうこともある。
 日誌を見ても、電話に出ても、俊明さんはもういないんだという結論に行き付き、泣きたくもなる。そんなときは決まって俊明さんが残した言葉を思い出すようにしている。
 「笑顔でいるのが一番」

 絹子さんは近く、原発事故関連死と認定されるよう浪江町役場に災害弔慰金の申請をするつもりだ。
 二本松市の遺跡発掘現場で倒れた俊明さんに「惨めな思いをさせたくない」と司法解剖を断ったため、死亡診断書の死因の欄は「不明」。状態から判断すれば急性心臓停止と医師から告げられた。「避難による心労がなかったとは言えなくもない」というような所見も書き添えられていた。
 菩提(ぼだい)寺は年間積算線量50ミリシーベルトを超える帰還困難区域にあり、納骨できないでいる。申し訳ない気持ちもあるが、時折、遺骨を見詰めている自分に気付く。「1年ぐらいは一緒にいようかな」。笑顔で強がってみても、頰を伝う涙を止めることはできなかった。

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