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「賠償の底流-東京電力福島第一原発事故」アーカイブ

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第1部 ふくしまの叫び(2) シイタケ栽培で生計 出荷制限、収入絶える

山あいに家々が点在する田村市都路町の合子荻田地区。集落は本格的な雪の季節を迎えつつある

 田村市都路町の一部は平成23年3月、東京電力福島第一原発事故に伴う避難区域となった。

 同町古道の合子荻田地区で原木シイタケ農家を営む坪井哲蔵さん(66)の避難生活が始まった。貴重品を抱え、妻の英子さん(59)や母親らと自宅を離れた。親類の家などを転々とし、6月に市内船引町の仮設住宅に落ち着いた。

 シイタケ栽培で使う菌を繁殖させたほだ木は放置せざるを得なかった。

 農家の4人きょうだいの長男として生まれた。農村部の小さな集落に就職先はなく、都路一中(現都路中)を卒業後、首都圏の工事現場で働いた。ビル建設や交通網の整備が急ピッチで進んでいた。地下鉄の建設作業などに携わった。

 25歳のころ、10年ほど離れていた古里への思いが高まった。「山を守る。地域に根付いて生きていく」。決意を胸に地元に戻った。興味を持っていた原木シイタケの露地栽培を始めた。丹精を込めると、思いに応えてくれるかのように良質なシイタケが採れた。仕事が好きだった。休まず作業に励んだ。

 当時、双葉郡で東電福島第一原発の建設が進んでいた。1〜4号機が立地する大熊町は、自宅から車で30分ほどだ。原発建設の労働者は賃金が高いと評判になり、地区の男たちは次々と現場に向かった。

 「一緒に働こう」
 「おれは行かないよ」
 たびたび声を掛けられたが、首を縦に振ることはなかった。原発に漠然とした不安があったからだ。

 シイタケ栽培は順調だった。次第に規模を拡大した。原発事故発生前の年間生産量は生シイタケ2トン、干しシイタケ800キロに上った。浜通りの市場に卸した。肉厚で香りがよいと評判だった。大阪府の業者らがわざわざ買い付けに来ていた。一家の生活を十分に支えることができた。英子さんらと作業に汗を流す日々は充実していた。

 原発事故で収入は途絶えた。

 仮設住宅に避難していた23年秋、東電が精神的損害賠償の支払いを始めた。口座に入った賠償金を引き出しながら生活する日々が始まった。「なんで、こんなことになっちまったんだろう」
 それから3年余り。古里への帰還はかなったが、政府の出荷制限によりシイタケ栽培を始めることはできない。ほだ木置き場は荒れ果て、山林の除染は手付かずのまま...。周囲を見渡すと、木々に付いた雪が寒風に舞い上がった。

カテゴリー:賠償の底流-東京電力福島第一原発事故

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