地域に根付くと決意 解除後の帰郷、思い悩む【復興を問う 帰還困難の地】(40)

2020/12/20 11:37

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復興拠点に認定された双葉町の市街地。建物は傷み、人出は工事関係者らの往来がある程度だ=10月20日
復興拠点に認定された双葉町の市街地。建物は傷み、人出は工事関係者らの往来がある程度だ=10月20日

 東京電力福島第一原発事故の発生当時、双葉町の商店「伊藤物産」の社長伊藤拓未さん(31)は大学生で神奈川県に住んでいた。簡単には帰れなくなった古里を思い、ぼうぜんとした。「この先、どうなってしまうんだ」

 安全・安心で、明るい未来の象徴であるはずの原発が事故を起こした。拡散した放射性物質により、双葉町は町面積の九割超が帰還困難区域になった。町内新山地区にあった伊藤さんの自宅も例外ではなかった。

 原発事故発生から二年後の二〇一三(平成二十五)年春、家族と初めて一時帰宅した。六号国道を走る車窓から、道路沿いを歩き回っている牛が見えた。商店街に人影はなく、静まり返っていた。変わり果てた古里の姿を目にし、胸が苦しくなった。

 鉄骨造り二階建ての自宅は梁(はり)が傾いていた。室内には冷蔵庫が倒れた状態で残り、震災と原発事故の発生直後のまま、時が止まっているかのようだった。大好きだった海辺は津波のがれきが積み重なり、近づけなかった。

 それでも、自宅近くの医院に目を向けると、敷地で桜が咲いていた。「人がいなくとも、変わらず花は咲くんだな」。朽ちていくかのような街の姿と、咲き誇る花の美しさの乖離(かいり)が、今でも心に焼き付いている。

 大学在学中の二〇一二年二月から米国に短期留学した。三月十一日の米紙ニューヨーク・タイムズに「3・11」が特集されていた。食い入るように読み、「故郷が世界規模の災害に遭った」と改めて感じた。自分に何ができるのか、深く考えるようになった。

 大学を卒業し、都内の電子部品を扱う商社に勤務していた二〇一七年九月、双葉町の面積の約一割に当たる約五百五十五ヘクタールが特定復興再生拠点区域(復興拠点)に認定された。古里の自宅も含まれていた。

 二〇二二年春までに拠点全域の避難指示解除を目指す計画だと人づてに聞き、「少しずつ復興が進むのではないか」と期待した。ただ、帰還困難区域は線量が高く、長期にわたり帰れない土地とされていた。「本当に人が住める場所になるのか」との疑念も湧いた。

 現在、拠点内では除染や家屋解体などが進む。伊藤さんは双葉町の店を軌道に乗せ、地域に根付いて生きていこうと決意する。だが、自宅は更地になり、拠点内で自由に住む場所を選べる状況にはなっていない。

 「避難指示が解除されたら拠点内に帰るかどうか、悩ましい」。原発事故の発生から十年目となっても将来像が描けず、もどかしさが募る。