朝河博士の父に宛てた感謝の書簡、里帰りを 福島市立子山・住民有志、米エール大に要望へ

2021/05/03 12:15

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朝河桜の前で立子山の歴史継承を誓う朝倉さん(右)と斎藤さん
朝河桜の前で立子山の歴史継承を誓う朝倉さん(右)と斎藤さん

 二本松市出身の歴史学者朝河貫一博士が幼少期を過ごした福島市立子山の住民有志は、朝河博士の父正澄が地区内の小学校長を退職する際、住民が感謝の気持ちを込めて贈った書簡「報恩之辞」の“里帰り”活動に取り組む。書簡は現在、朝河博士が拠点とした米国エール大に保管されている。署名活動などを通して機運を盛り上げ、博士生誕百五十年となる二〇二三(令和五)年を目標に帰還を実現させ、古里の歴史を未来につなぐ。

 「報恩之辞」は一八七四(明治七)年から一九〇三年まで子どもたちを導いた正澄に謝意を示すため、記念の懐中時計などとともに贈られた。縦三十~四十センチ、長さ六~七メートルの巻物。時計を寄贈するための資金協力者七百~八百人の名前や住民の思いがしたためられている。朝河博士が受け継いだが、博士の死後、大学側が研究関係書類として保存した可能性が高いという。

 返還活動は立子山のNPO法人地域のみんなのチカラが始める。住民を中心に署名を集めた後、県教委、福島、二本松両市教委に協力を求める。同意を得られれば各教委、朝河貫一博士顕彰協会とともに「報恩の辞里帰り実現連絡協議会(仮称)」を設立し、エール大に要望する段取りを考えている。

 返還が実現した場合、公的機関に保管を働き掛け、地元での複製品の常設展示も目指す。四月の理事会で活動方針を確認しており、夏前の理事会で署名開始時期や目標数などを決める。決定次第、同会のホームページで発信していく。

 立子山は正澄退職から七年後の一九一〇年に優良村として内務大臣表彰を受けており、住民は正澄の教えに深く感謝した。当時、小学校として利用され、朝河博士も暮らした同地区の天正寺には、小学校跡の建物や博士幼少期の落書き、博士が学んだ県尋常中(現安積高)から子孫を移した朝河桜などが残っている。

 NPO関係者は「報恩之辞」が古里へ戻れば再び歴史に光が当たると期待する。理事長の朝倉鉄哉さん(79)は「署名を通して地域に理解の輪が広がってほしい」と願い、事務局長の斎藤信行さん(67)は返還活動を通し「地域の子どもたちに古里を誇りに思う気持ちが育ち、次のまちづくりにつなげてほしい」と期待を寄せている。


■「誇りを示す象徴的資料」 早稲田大の甚野教授評価

 朝河博士を長年研究する早稲田大文学学術院の甚野尚志教授(63)=福島市出身=は「報恩之辞」を「正澄の偉大さ、立子山の誇りを示す象徴的な資料」と評価する。

 「報恩之辞」は父の遺品として朝河博士が渡米した後も大切に持ち続けていた。博士の死後、正澄の手記など私的な物は県内の近親者の手に戻り後に県立図書館で保存され、研究に関わる物はエール大に残された。甚野教授は巻物の「報恩之辞」について、博士が収集した日本古典関連品と当時の大学関係者が思い込み、現地に残されたとみている。

 甚野教授は「本来は遺族に返されるべきもの。(来歴を理解してもらえば)返還される可能性は十分ある」としている。


※朝河貫一博士

 1873(明治6)年に二本松市で生まれた。二本松藩士として戊辰戦争を生き抜いた父正澄(1844~1906年)が校長を務めた立子山小などで学び、県尋常中(現安積高)、東京専門学校(現早稲田大)を経て渡米。日欧の封建制度比較研究で業績を残す。戦争回避のため昭和天皇宛の米大統領親書草案をまとめるなど平和・協調外交を訴えた。1948(昭和23)年没。