形見としての自然(10月10日)

2021/10/10 09:53

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 お通夜の儀式後、私はたいてい柩[ひつぎ]の蓋[ふた]に筆で文字(言葉)を書かせていただく。別に私の発案ではなく、先住職である父がしていたことだし、元々は宗派に関係ない全国的な習慣で、棺文[かんもん]と言われる。

 昔ながらの定型句がある。「出[い]でて生[しよう]死[じ]を離れ、入りて涅[ね]槃[はん]に住す 寂滅を樂と為[な]し 常住を究[く]竟[ぎよう]す」。

 我々はさまざまなレベルで生死を繰り返す存在だが、その生死の世界を出て、この度「涅槃」(つまり変化の滅した世界)へ入ることになった。これまでは変化こそ楽しみだったけれど、今後は寂滅(=涅槃。変化の滅した状態)を楽しみにして、常住(永遠の命)を究[きわ]め竟[おわ]ることになる。ざっと訳すとそんな意味だろうか。外した柩の蓋には合計十六文字の漢字だけを書く。

 基本はこれだが、長年のうちに私は故人に合わせてさまざまな言葉を書くようになった。「いろは歌」や俳句、あるいは経典の一節、『老子』『荘子』の言葉など、故人によっていろいろである。

 時には良寛和尚の辞世の歌を書くこともある。「形見とて何か残さむ春は花山ほととぎす秋はもみぢ葉」……。

 その日暮らしの托[たく]鉢[はつ]僧だった私にすれば、形見といってなにも残せはしないが、死ねば火葬になって酸素と化合し、天空高く広く拡散していくだろう。それは微[み]塵[じん]に分かれた私だ。雨でも降れば、土にも川にも海にも入るし、だからやがて花にも鳥にも魚にも入る。私の愛した大自然に溶け込んでいくのだ。今後はそれが私の形見だと思ってはくれんか……。

 勝手な訳を書いてみたが、凡[およ]その趣旨は諒[りょう]解[かい]いただけただろうか。

 ところがその自然が、今や瀕[ひん]死[し]状態にある。世界的な気候変動のせいで線状降水帶も頻出するし台風の規模も変わった。国によっては異常な乾燥で山火事に苦しんでいる。しかしこの国で被害を大きくしているのは、やはり盛り土や嵩[かさ]上[あ]げ、あるいは水脈を塞[ふさ]ぐ基礎工事など、人為的な営みの集積であることを認識すべきだろう。

 人が呼吸で命を保つように、大地は通気通水で果てしない年月を生き延び、雨水を呑[の]み込む「水脈」も自然に作り上げてきた。しかし多くの土木工事はこの「水脈」を安易に塞ぎ、また断ち切ってきた。昭和四十年代以降の「日本列島改造」などその最たる例だが、いわばそれゆえの土砂崩れや河川氾濫が今起こっているのだ。

 我々僧侶は死者を浄土へ送りだそうとするが、あるいは柳田国男の言うように、人は近隣の山や海との往還を繰り返すのか、とも思う。そうであるなら尚[なお]更[さら]、最期に還[かえ]る故郷としての自然は何としても保たなくてはなるまい。死者たちの形見と思えば、自然への手荒な改変も少しは慎んでもらえるだろうか。(玄侑宗久 僧侶・作家、三春町在住)