キリスト教教育の先駆者・井深梶之助(会津藩出身) 明治学院が冊子で紹介

2021/12/21 13:32

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小冊子「心清き者は福なり」
小冊子「心清き者は福なり」
壮年期の井深梶之助(明治学院歴史資料館所蔵)
壮年期の井深梶之助(明治学院歴史資料館所蔵)
井深が娘へ渡した写真裏の和歌。亡き妻とわが子への愛情に満ちている(明治学院歴史資料館所蔵)
井深が娘へ渡した写真裏の和歌。亡き妻とわが子への愛情に満ちている(明治学院歴史資料館所蔵)
井深梶之助が松平容保から贈られた文鎮(明治学院歴史資料館所蔵)
井深梶之助が松平容保から贈られた文鎮(明治学院歴史資料館所蔵)

 幕末の会津藩に生まれ後に明治学院第2代総理(学院長)になった井深梶之助(1854〈嘉永7〉~1940〈昭和15〉年)は、鶴ケ城(福島県会津若松市)での籠城戦を経てキリスト教の教育者として歩んだ。その足跡を紹介する冊子「心清き者は福(さいわい)なり―明治学院と井深梶之助」を学校法人の明治学院(東京都)が発刊し、井深の生涯や思想、関係資料を示している。

 井深の父は上級武士で学校奉行の職にあり、井深は母方の祖父西郷頼母の家で出生した。藩校日新館で文武を学び会津戦争時は小姓として藩主に付き従った。開城後は謹慎を経て1870(明治3)年に上京、西洋文明の基礎がキリスト教であることを知り聖書を読み始めた。その教えに感化され1873年に洗礼を受けた。その後は東京一致神学校で学びを深め助教授に就いた。明治学院の創立にも尽力し、1889年には明治学院の副総理になった。米国留学後の1891年、初代総理のヘボンの辞任を受け2代総理に就任した。基督教教育同盟会の会長を務めた他、キリスト教教育についての国際会議にも出席、国内のキリスト教教育第一人者として活動した。

 冊子は井深の来歴を記すとともに、人柄がにじむ記述もしている。例えば「(井深の)短い祈りの声は清く澄んで荘重、講堂のすみずみまで徹(とお)り、これならば確実に神様のところまでとどくぞと思ったほどである」(「明治学院同窓会報」第19号より)など、キリストの教えに真摯(しんし)に向き合った姿が浮かぶ。

 1898年に病没した妻勢喜子をしのぶ姿も見て取れる。妻の死去後、井深が幼い三女春子に妻の写真とともに贈った和歌〈むさしの海うみよりふかきたらちねのおやのめぐみはゆめなわすれそ〉などを示している。

 2020(令和2)年度に井深の子孫から明治学院へ寄贈された資料の一部を紹介している。井深の母の刀剣、松平容保から井深が贈られた文鎮、井深が使用した落款などを写真付きで見ることができる。

 冊子はPDFファイルとして明治学院のホームページで無料公開している。


―井深梶之助の歩み―

1854年 会津若松城下の西郷家で出生。幼名清佶

1863年 会津藩校日新館に入学

1868年 15歳で元服し梶之助と改名。会津戦争では藩主の小姓となり籠城を経験

1870年 上京。その後、英語や聖書を学ぶ

1873年 洗礼を受ける

1877年 東京一致神学校に1期生として入学

1880年 東京麹町教会牧師に。水上勢喜子と結婚

1881年 東京一致神学校助教授となる

1886年 東京一致神学校などが合併した明治学院で神学部教授に就任

1889年 明治学院副総理となる

1890年 渡米、ユニオン神学校に留学

1891年 明治学院第2代総理に就任

1898年 勢喜子死去

1900年 大島花と再婚

1905年 キリスト教関係国際諸会議出席のため欧米歴訪

1910年 基督教教育同盟会初代会長となる

1921年 明治学院総理を辞し、名誉総理になる

1940年 6月24日死去