悪の凡庸さ(5月1日)

2022/05/01 09:05

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 ハンナ・アーレントは、ナチスの強制収容所から脱出し米国に亡命した経験を持ち、『全体主義の起源』など多くの著作で知られるドイツ系ユダヤ人政治哲学者である。当時、彼女のユニークかつ切れ味鋭い理論や言説は社会に衝撃を与え、賛否両論を巻き起こした。

 二〇一三年公開の映画『ハンナ・アーレント』は、彼女の最大の問題作である『エルサレムのアイヒマン』の取材や執筆を巡る実話に基づいたドラマである。

 彼女は、ナチスのユダヤ人移送の最高責任者であったアドルフ・アイヒマンの裁判を取材するためにイスラエルに渡る。ジェノサイド(大量虐殺)の中心的役割を果たしたアイヒマンに対するユダヤ人の怒りは計り知れず、当然のように絞首刑に処せられるが、アーレントは裁判の一連の過程に大きな違和感を覚える。彼女の取材記は、多くのユダヤ人同胞の期待に反したものとなり、そのことで批判に晒[さら]されることになるが、その論点の一つが、彼女が示した「悪の凡庸さ」という概念である。

 ユダヤ人にとって悪逆非道な“悪魔”であるはず(でなければならない)のアイヒマンを、彼女は、上からの命令に忠実に従う官僚組織の歯車となった平凡な小役人、つまり〈思考停止の〉人間だ、と断じたのだ。当時、彼女に対し“(アイヒマンを擁護した)裏切り者”のレッテルが張られ、強烈なバッシングが起きたであろうことは、東京五輪の開会式を巡る問題などで今も容易に想像がつく。

 確かに日々ウクライナの惨状がニュースで伝えられ、中でも残虐なジェノサイドの映像や人の血が通っているとは思えない数々の言動に相対するとき、それが悪魔の所業にしか見えなくても無理はない。しかし一方で、反戦デモを取り締まる警察官や詭弁[きべん]を続ける政府高官たちに、無数のアイヒマンの姿を重ね合わせて見る人も少なくないはずだ。改めて、いかに彼女が覚悟を持って重い問いを突き付けたことが現在なら分かる。

 「悪の凡庸さ」は、情状酌量の要素ではなく、彼女が遺[のこ]した警告である。悪は特定の狂信者や極悪人によってではなく、ごく普通に生きていると思い込んでいる平凡な一般人によって引き起こされる、悪は遍在しているのである。

 無論それに気づき、理解したとしても肥大化した「凡庸な悪」が直ちに解決するわけもない。それでもアーレントが一貫して“思考”を重視したのは、それこそが「凡庸さ」に打ち勝つ唯一の手段であると考えたからだろう。

 翻って私たちの身の回りにも様々な対立やあつれきが存在する。果たしてそこで“思考”や“対話”は機能しているだろうか。

 思考を止めないこと、つまり無自覚な常識を疑い、他者を理解することは容易[たやす]いことではない。しかし、それを放棄した「無思想性」が悪を生むという彼女の主張は、不穏な時代にこそ重く響く。(福迫昌之、東日本国際大学副学長)