日本国憲法が一九四七(昭和二十二)年五月三日に施行され、きょう七十五年を迎えた。国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の原則は守られているのか、揺らぎを感じる出来事が続いている。憲法記念日に当たり、国の本来の在り方や針路を一人一人が改めて考え、主権者としての意識を高めていきたい。
繰り返し訴えねばならないのは、東京電力福島第一原発事故の発生から十一年が過ぎても、三万二千人を超える避難者がいることだ。居住環境がある程度は改善されたり、避難先に居を構えて新しい生活を始めたりしたとしても、古里に戻れぬつらさは癒えはしまい。仮に憲法が定める「健康で文化的な最低限度の生活」は満たされても、「幸福追求権」はどれほど享受できているだろう。
避難者らが国と東電に慰謝料や損害賠償を求めた訴訟の上告審では、「生きた証しを奪われた」といった悲痛な意見陳述が相次ぐ。「津波は予見できた」とする原告側に対して、国は「東電に対策を指示したとしても、事故は防げなかった」と主張する。最高裁の判断はどうあれ、国は憲法に照らし、長期にわたる苦痛にさらされている人々に目を向け続ける義務は果たさなければならない。最低限度の生活でいいはずもない。
賠償を巡り、国の中間指針を上回る東電の責任が複数の集団訴訟で確定している。文部科学省の原子力損害賠償紛争審査会は、指針を見直すべきかどうかを検討する方針という。ようやくの感は否めない。中間指針と司法判断との解離を速やかに埋めるべきなのは当然だろう。でなければ、民主国家を支える三権分立は成り立つまい。
桜を見る会や森友学園問題では、合法か違法かの判断材料になる関係文書が処分や改ざんされていたことが発覚した。特定政治家への忖度[そんたく]の有無も取りざたされた。森友学園については、決裁文書の書き換えを指示された財務省近畿財務局の元職員が自ら命を絶ち、遺族は今も国の責任を問い続けている。国民が置き去りにされないよう、国や政治の動静を注意深く見ていかねばならない。
ロシアのウクライナ侵攻で、世界の平和は未曽有の試練に立たされている。日本は停戦、終結にどう関わるかが問われている。国会では改憲論議が始まっている。戦争を放棄し、戦力・交戦権を否認する九条改正について、共同通信社の世論調査は賛否が拮抗[きっこう]していた。平和主義が変質しないよう国民的な議論が求められる。(五十嵐 稔)