【戦後77年 戦争と記憶 語り継ぐふくしまの思い (2)】 戦火 のどかな町まで

2022/08/13 09:18

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講話に向け、体験をしたためた資料を手にする安藤さん
講話に向け、体験をしたためた資料を手にする安藤さん

 「のどかな田舎町だった矢吹町にも軍の飛行場があり、空襲を受けたんです」。福島大名誉教授の安藤勝夫さん(85)=福島市=は七十七年前を思い返す。太平洋戦争末期の一九四五(昭和二十)年。国民学校の二年生で八歳の少年が暮らす矢吹町にまで戦火は及んでいた。福島市のコラッセふくしまで十五日、「2022ふくしま平和のための戦争展」(十三~十六日)の企画として当時の記憶や思いを話す。戦争体験を公の場で語るのは初めてだ。

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 日中戦争が始まった一九三七年に大正時代から続く商家の三男に生まれた。「勝夫」の名も戦勝にちなんだ。兄二人を早くに亡くし、実質的な長男として育てられた。

 物心つく頃には既に国家総動員の戦時体制下となり、軍国主義や忠君愛国を礼賛する本を読んでは「のらくろ」たちの活躍に心躍らせた。「本土決戦」「一億玉砕」といった勇ましい言葉が国じゅうを覆う中、「お国のために名誉の戦死を遂げる」ことが運命と考える軍国少年だった。

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 「矢吹が原」と呼ばれる平地が広がる町には戦時中、中心部から二キロほど東に陸軍の飛行場があり、訓練兵の乗る機体が上空を飛んでいた。戦争末期にはその飛行場が空襲の標的にされた。米軍機が爆弾を投下し、機銃掃射を浴びせた。市街地にあった実家も被弾。弾丸が屋根や窓ガラス、柱を貫き、たんすの中の着物にまで達していた。

 空襲警報が響くたびに防空頭巾をかぶり、家の裏の山にある防空壕(ごう)に飛び込んだ。ある夜には郡山市のある北の空が、空襲による火災からか赤く染まっていた。

 終戦を告げる八月十五日の玉音放送は自宅で聞いた。隣組で唯一、ラジオのある部屋に近所や疎開中の人々が集まっていた。幼な過ぎて内容を理解できなかったが、周囲の大人の神妙な面持ちから事の大きさを察した。「戦争が終わったぞい! 腹いっぱい食べて元気出しな」。放送後に昼食の支度をする母が発した言葉が耳に残っている。

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 終戦後は食糧不足に苦しんだ。雑貨商だったため、近隣の農家との間で商品や農作物を交換してしのいだ。白河高から東北大文学部、同大大学院を経て一九六六年に福島大教育学部の助手となり、英文学研究の道に進んだ。

 大学教員として平和主義や憲法擁護の立場を貫き、日本国憲法に関する英文のテキストを講義に用いたこともある。学生に向けて断片的に戦争に触れる機会はあったが、戦時中の自身の境遇や思いを公の場で詳しく語ることはなかった。

 戦争展を主催する実行委員会の委員長に昨年就いたことに加え、ロシアによるウクライナ侵攻が今回の講話を引き受けるきっかけとなった。国内外で軍事力強化を巡る議論が盛んとなり、台湾情勢も緊迫している。

 戦争を知る世代として世相の変化への危機感を強める。「昔の日本や今のウクライナのような、悲惨な状況を二度と繰り返させない。特に若い皆さんに来場してほしい」。展示や講話が平和の尊さを将来に伝える一助となるよう願っている。


※矢吹飛行場 昭和初期に、草刈りと整地をしただけの簡易的な飛行場として開設された。住民の勤労奉仕で滑走路が整備され、1937(昭和12)年に正式に陸軍の飛行場となり、1940年から熊谷飛行学校矢吹分教所となった。航空機の操縦要員を養成し、太平洋戦争中は多くの軍人が特攻隊員として戦地に飛び立った。終戦直前の1945年8月に米軍の爆撃により破壊された。