今を生きる 原発事故の現場から(24) 必ず町を取り戻す

ブログを更新しながら古里復興への決意を新たにする前司さん

 楢葉、広野両町にまたがるJヴィレッジに、資材を降ろす大型クレーン車のエンジン音が響く。「(資材の)一つ一つが古里の復興につながるはず」。浪江町のクレーンリース会社取締役営業担当の前司昭博さん(29)は、福島第一原発事故の収束作業の前線基地で重機を操作する手に力を込めた。
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 避難先のいわき市のアパートから毎朝6時に現場に向かう。帰りはいつも夜8時を過ぎる。
 防護服と全面マスクでの作業は汗ばみ、動きにくい。20人余りの従業員は全員年上だ。現場を取り仕切る中で気を配るのは、けがだけではない。「見えない放射線の恐怖を感じる時が正直ある」。誰かがこの仕事をやらなければならないとの思いが一人一人を支える。
 浪江町の中学、高校から仙台市の土木関係の専門学校に進んだ。卒業後、双葉町の建設会社勤務を経て父(60)が社長を務める会社に入った。
 震災前は仕事の8割以上が東京電力関係で、定期検査や施設内の足場資材の運搬、耐震化工事などに当たってきた。原発事故後、家族で川俣町に避難したが、休んでいる暇はなかった。
 現場に復旧資材が次々と運び込まれ、資材をさばく業者が必要とされていた。3月末に仕事を再開し、しばらくは川俣町から東北、磐越両自動車道を乗り継ぎ片道2時間かけてJヴィレッジに向かう日々が続いた。体力の限界を感じ、4月中旬、いわき市にアパートを借りて通っている。
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 帰宅後、なみえ焼そばのPR団体「浪江焼麺太国」のブログを更新するのが心安らぐ瞬間だ。どんなに疲れていても欠かしたことはない。
 初めは会社の付き合い程度と考えていた。一緒に活動しているうちに絆が深まり、麺焼きと専用ブログの担当になった。
 3月下旬、仲間からメールが届いた。「前司が原発で頑張っている間、おれたちがなみえ焼そばを守る」。どこに移っても、誰もが郷土を思い活動していることを知った。
 「人、仲間、家族、仕事、山や海。全てがそろって初めて町を取り戻したことになる」。自分が今できることをする。その積み重ねがいつか必ず復興への大きな力になると信じている。

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