今を生きる 避難先から(9) 20キロ圏内母思い

 「一人でも多くの人を早く見つけてあげたい」。南相馬消防署小高分署警防係の佐藤泰弘さん(20)は、南相馬市原町区の相馬地方広域消防本部の車庫で真っ白な防護服に袖を通す。3月11日の大津波で母けい子さん(51)を失った。肉親を捜す人の気持ちが痛いほど分かる。東京電力福島第一原発から半径20キロ圏内で避難指示区域に当たる小高区に向かい、行方不明者の捜索活動に全力を尽くす。
    ◇   ◇
 あの日は非番だった。午前中の救助訓練を終えた後、相馬市原釜の自宅には戻らず、夕方の送別会に備えて車で仮眠していた。ものすごい揺れで目が覚めた。自宅に電話をかけたがつながらない。母の携帯電話にはつながった。「みんな大丈夫か」と声を掛けると、母は「家はちょっと壊れたけど、無事だよ」と答えた。それが最後の会話となった。
 突然の悲報が届いたのは、被災地の捜索活動や救急搬送に忙殺されていた12日の夕方のことだ。「おばあさんは助かったみたいだけど...お母さんが亡くなったようだ。お父さんの行方も分からないらしい」。友人からの電話に耳を疑った。
 翌13日、いとこからのメールで父弘行さん(55)の無事を確認した。祖母リヨさん(79)は親戚が避難させてくれていた。家に残っていた母だけが津波にのみ込まれた。
 14日夜、相馬市の葬儀場で亡くなった母と対面した。いつもと変わらない穏やかな顔。眠っているように思えた。だが、頬に手を当てると冷たかった。今までこらえてきた涙があふれだしてきた。「あの時、津波のことを言えなくてごめんね」
 対面を終えた翌日、震災後初めて原釜に行った。目の前に広がるのはがれきの山だけだった。20年間過ごした街はもうない。火葬し、控室で待つ間、「今までありがとう」と、感謝の言葉を繰り返した。
    ◇   ◇
 職場に復帰する前日の18日、再び自宅の跡地を訪れた。がれきの中、自分の部屋があった場所で、腕時計に目が留まった。母が就職祝いに買ってくれた時計だった。不思議と傷はなく、しっかりと時を刻み続けていた。「お母さんが残してくれたのかもしれない」と思った。
 今は相馬市にアパートを借り、父と祖母と3人で暮らしている。時計は大切な形見だ。「消防の仕事に就いた時、すごく喜んでくれた。母の分まで頑張ろう」。脳裏に焼き付いた母の笑顔が優しく見守っている。