今を生きる 避難先から(8) 再び海へ兄弟船

 船上で写した一枚からは潮の香りがした。波の音まで聞こえるようだ。避難先の福島市飯坂温泉の旅館で、南相馬市小高区の漁師佐藤明彦さん(34)が、写真をじっと見詰める。漁師の父敬次さん(62)、兄雄二さん(36)と撮った。ずっと3人で漁をしてきた。それなのに、今、兄だけがここにいない。
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 地震発生時、海岸から約3キロ離れた自宅にいて無事だった。父も津波が来る前に、浪江町の請戸漁港から船を沖に走らせ、難を逃れた。しかし、父を追い掛けて漁港に向かった兄は津波の第二波にのまれた。それ以来、連絡が途絶えている。
 原発の事故で、船を係留していた請戸漁港も、小高区の自宅も避難指示区域になった。父と母香代さん(58)の家族三人で一度、仙台市に避難したが、居ても立ってもいられず、兄を探しに請戸に行った。雨具とゴム手袋、長靴にマスク3枚−。何とか手に入れた資材で作った"防護服"を着て、変わり果てた漁港を歩いた。
 大量のがれきに、岸壁に打ち上げられた船、逃げ遅れて亡くなったとみられる人も横たわっていた。いくら探しても兄は見つからない。港に泊めている船の中に、兄の船舶免許があった。泣きながら持ち出した。
 あの日までは親子3人でマガレイ漁に出漁していた。自分も一級小型船舶操縦士の免許を取得し、兄と共に「これから」という矢先だった。「どうして兄ちゃんが犠牲に...」。残された兄の船舶免許を見て、悲しさよりも、悔しさが込み上げてきた。
 それ以降、震災後朝晩欠かさずしていた兄へのメールと電話をやめた。「おやじと、おふくろは俺が守っていく」。自分の心の中で一つの整理をつけた。
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 大津波で漁港が壊滅的な被害を受け、豊かだった海には原発事故によって汚染水が流出した。だが、兄と乗っていた船は、がれきで傷ついたものの、何とか残った。名前は「明雄丸」。兄弟の名前から一字ずつを取り、父がつけた。
 南相馬市から仙台市、埼玉県、猪苗代町へと、避難所を転々とする生活は1カ月を越えた。自宅や漁港に戻れる日はまだ見通せないが、他の港を探してでも続けるつもりだ。「雄二がいねぇからやめるしかねぇな」と漏らしていた父も、「また一から鍛え直してやる」と応援する。
 「兄ちゃんの名前が入った明雄丸をつぶすわけにはいかない。俺にとって漁師は天職だから」。これから迎える荒波を乗り越える覚悟はできている。