今を生きる 避難先から(6) 時計の針再び...

 3月11日午後2時46分−。あの時から心の時間は止まったままだ。「震災前には戻れない。分かっていても、できるなら時計の針を戻したい」。浪江町で86年続く原田時計店の原田雄一社長(62)は避難先の喜多方市で、何とか店から持ち出した愛用のドライバーを強く握った。
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 あの日、店にいた原田さんを、激しい揺れが襲った。妻のアキイさん(58)、功二さん(34)と葉子さん(34)の娘夫婦も必死で商品を押さえた。目の前でショーウインドーが倒れる。高価な時計やカメラが床に落ち、宝石やメガネが飛び散った。
 町の防災無線が津波の襲来を告げた。「みんな急げ」。壊れた店にブルーシートをかぶせ、家族5人で高台の中学校に逃げた。母トミヱさん(85)は転倒してけがをした。南相馬市の病院に運ぶと、左大腿(だいたい)骨骨折の重傷。病院で夜を明かした。
 すぐに店を再開するつもりで、翌12日朝には自宅に戻る。その時、再び防災無線が鳴った。原発事故による避難指示。少しの商品と修理に使う道具などを車に積み込むのがやっとだった。
 葛尾村の避難先で、原発が水素爆発を起こしているテレビ映像を見た。「もう戻れないのでは...」。不安が大きくなる。一家は喜多方市塩川町の親戚宅に身を寄せ、トミヱさんは会津若松市の病院で手術を受けた。
 これだけはと、抱えてきた箱がある。預かり物が入っている。あの日に渡すはずだった得意先の会社員の退職記念の置き時計、高校の入学祝いの名前入りボールペン、修理を頼まれた時計やメガネ...。一人一人の顔が浮かぶ。「何とか返したい」と原田さんは願う。
 地域のつながりを大事に商売をしてきた。原田さんは浪江町商工会の副会長。千葉県出身の功二さんは今月から町商工会青年部長に就く予定だった。「コミュニティーが原発事故で破壊されたことが、一番悔しい」と2人は唇をかむ。
 原田さんは避難先でも道具を手入れし、時計やメガネの修理を続ける。離れ離れになった仲間とも連絡を取る。帰れない故郷や支えてくれた地域の人たちと、つながっていたいと思うからだ。
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 あの日から1カ月−。功二さん夫婦は仕事を求めて上京した。「帰れるようになったら、飛んで帰る。青年部のみんなと浪江焼きそばを焼いて町を元気づけたい」。功二さんの言葉に原田さんがうなずく。「今度は浪江で会おう」。店を再開し、時計の針が再び時を刻み始める日を、一家は信じている。