今を生きる 避難先から(5) ぬくもりは今も

新学期を控えた相馬市の相馬東高に、体育教諭の穂積憲一さん(59)がいた。福島第一原発がある双葉町の自宅から避難を余儀なくされ、学校に戻るのは約1カ月ぶりだ。地震から17日後、避難先で父吉久さん(83)を亡くした。背中に初めて背負った父のぬくもりが残る。
◇ ◇
3月11日午後、顧問を務める柔道部の打ち合わせ中に地震が来た。武道場に高く積まれた畳と畳の間に生徒たちと一緒に身を隠した。校内放送に従って生徒や教職員約100人が校舎二階に避難した。顔を伏せ、目に涙をためる生徒...。同僚と生徒の安否を確認し、保護者に電話連絡した。
午後10時ごろ、最後の生徒を親元に帰した後、家族のことが心配になった。電話は通じない。45キロほど離れた自宅に車で急いだ。妻映理子さん(59)の車はあるが、誰もいない。家族を捜しに飛び出した。
翌12日早朝、パトカーや消防車はサイレンを鳴らし、住民に避難を呼び掛けていた。寝たきりの父は第一原発に近い福祉施設にいた。避難先一覧の双葉北小の名簿に妻や足の不自由な母繁子さん(78)の名前があった。
父を施設の職員に頼んで学校に行くと、妻と母はすでに川俣町に向け移動していた。勤務先に向かおうとしたが、道は避難車であふれていた。その後、妻からメールが届いた。郡山市の三女(27)のアパートに向かっているという。母も無事だった。
妻、母らと13日、いったん三女のアパートに身を寄せ、川俣町に避難していた父を迎えに行った。父を背負って車に乗せた。長年農作業に励んだ手はごつごつしていた。痩せ形だが、骨太でずしりと重い。「おやじ、一緒に双葉に戻ろうな」と、心の中で叫んだ。
そんな父は19日、肺炎を起こし、28日に入院先の郡山市の病院で亡くなった。環境の変化やストレスが大きな負担になったのだろう。無口で、黙々と働き、泣き言を言わない人だった。地元に戻ることはできず、郡山市で葬儀をした。父の無念を思った。
◇ ◇
相馬東高は18日に新学期が始まる。同校では地震や津波で複数の生徒の行方が分からない。自宅や肉親を失い、避難生活を強いられる生徒も少なくない。
自宅には戻れないため、当分は福島市に部屋を借りて学校に通う予定だ。「自分以上に苦しくて、つらい思いをしている生徒がいる。心のケアが教師の務めになるはず」と学校再開に備える。「みんなのために汗を流せ、憲一」。父の声が聞こえるような気がする。