今を生きる 避難先から(4) 原発の父が支え

福島市高湯温泉の旅館の一室で、南相馬市原町区から避難してきた玉川知史君(17)=小高工高3年=は父茂男さん(49)に電話をかける。東京電力の協力会社に勤める父は、家族と離れ、今も深刻な状況が続く福島第一原発で働く。「話す時間はいつも5分程度。でも、安心するし、心が通う気がする」。遠く離れた親子を、携帯電話がつなぐ。
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地震の時は学校近くのグラウンドでソフトボール部の練習をしていた。「バキバキバキ」。地鳴りのような音がして、近くの木々が次々に倒れた。立っていられず、思わずその場にひざまずいた。家族に何度電話をかけてもつながらない。自転車で急いで家に向かうと、大渋滞と陥没した道路が続いていた。
家族は全員無事だった。家も食器棚が倒れる程度で済んだ。だが、約1週間後、父に会社から招集がかかる。原発での電気の復旧作業だった。「被ばくしたら、その時はその時」。父は笑顔で家を出た。見送る母圭子さん(44)の肩は小刻みに震えていた。
間もなく自宅が屋内退避区域に入る。母と弟の茂幸君(15)=小高工高1年=、祖父充さん(84)とともに福島市に自主避難することになった。父にも来てほしかったが、「仕事がある」と残った。
父は自宅から約30キロ離れた福島第一原発に通い、防護服を着て懸命に復旧に当たっている。原発事故は事態がなかなか収拾しない。ニュースで「放射能」や「被ばく」という言葉を耳にするたびに、心配になる。
夜、どちらからともなく電話をかけ、お互いの無事を確認する。「(今は)お前が大黒柱なんだ。家族を頼んだぞ」。父がいつも冗談交じりに話していた言葉が、震災が起きてからは本気に思えた。避難所の暮らしは心細い。短い電話のやりとりが心の支えになっている。
最初に避難した福島市の体育館で、母が体調を崩した。「家族を頼む」−。父の言葉を思い出し、必死に看病した。母に代わって弟と祖父の身の回りの世話もした。マスクの配布や食事の準備、小さい子どもの相手−。ボランティアも自分から買って出た。
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避難所は体育館から高湯温泉の旅館に移ったが、父と離れ離れの生活は今も続く。危険を伴う現場で作業する父を見て、「人の役に立つ仕事をしたい」と思う。消防士になるのが夢だ。「お父さん、こっちは大丈夫だよ」。避難所で家族を守りながら、父の無事を祈っている。