(1)【第1部 8年余の歳月】父の遺骨と初の帰郷 「ここが古里なのか…」

15歳になって原発事故後初めて双葉町に入った大地さん(右)。明美さん(左)と一緒に一彦さんの遺骨を墓に納めた
15歳になって原発事故後初めて双葉町に入った大地さん(右)。明美さん(左)と一緒に一彦さんの遺骨を墓に納めた

 安倍晋三首相は施政方針演説などで「長い年月を要するとしても全ての地域の避難指示解除に向け、復興再生を着実に進める」と述べてきた。しかし、原発事故から八年八カ月余りが過ぎてなお、帰還困難区域の先行きはみえない。増え続ける原発事故関連死、特定復興再生拠点以外の除染…。課題が山積みの現実と、古里への愛着の狭間で揺れ動く人々の今を追う。


 今年六月、双葉町の帰還困難区域内の墓地に、防護服姿でたたずむ少年の姿があった。東京電力福島第一原発事故を受けて埼玉県加須市に避難している騎西中三年の小畑大地さん(15)だ。母親の明美さん(52)が寄り添う。父親の一彦さんの姿はない。二〇一七(平成二十九)年に避難先で体調を崩し、亡くなった。「やっと帰れたね」。明美さんは、大地さんの胸に納まる夫の遺骨に話しかけた。

 避難して以来、八年ぶりに眺める古里の景色は思い出とかけ離れていた。「でも一区切りついたな」。大地さんの心にまとわりついていた複雑な思いが、ふっと解けた気がした。

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 国は二〇一一(平成二十三)年四月二十三日、原発事故に伴い設定された警戒区域について一時立入許可基準を発表した。十五歳未満の立ち入りは認められなかった。その後、警戒区域から帰還困難区域となったが、町はこの基準を引き継いだ。納骨は家族そろって、と考えた。二人は大地さんが十五歳になるのを待つしかなかった。

 墓地へ向かう前、防護服姿でわが家に立ち寄った。玄関は地震でゆがんだのか開かない。玄関脇の縁側がある窓から中に入ると、足の踏み場がないほど物が散乱していた。不在の間にイノシシが侵入し、荒らしたようだった。

 「この部屋に入っていい?」。明美さんは「いいけど…。けがをしないようにね」と答えた。一彦さんが避難する直前、夜勤明けで食べたラーメンのどんぶりが食卓の上にそのまま置かれていた。二人は交わす言葉も少なく歩き回った。

 「パパへ おつかれさま だいち」。つたない字で書かれた紙を明美さんが見つけた。「大地がお父さんに書いた手紙だよ」。弾んだ声を上げた。一彦さんと家族三人が、平穏に過ごしていた双葉町の生活を思い出しながら二人は黙って手紙に見入った。「この手紙は加須に持って帰ろう」。明美さんがつぶやいた。

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 大地さんには、父親の納骨以外にも帰郷した理由があった。「双葉町が今どうなっているか、見てみたかった」。幼い頃に遊び場だった自宅周辺の田んぼには、稲ではなく見知らぬ木が揺れていた。

 明美さんの思いも複雑だ。平地の除染が進んでも、除染していない山から放射性物質が流れてくるのではないか。長い年月が積み重なり、ばらばらになってしまった地域コミュニティーは復活するのか。さまざまな疑問が胸をよぎる。

 町は町の未来像を描いた町復興まちづくり計画を策定した。しかし明美さんは「いつ計画のような町になるのだろうか」と思っている。

 大地さんは「除染が進み、福島が復興してほしい」と願う。その一方、避難先での生活が双葉町で暮らした年月より長くなり、今は加須が生活のすべてだ。「今の自分にとって、ここが古里と言えるのだろうか」