(2)【第1部 8年余の歳月】「双葉の子」に違和感 「避難先に友達できた」

東京電力福島第一原発事故で双葉町から埼玉県加須市に避難した小畑大地さん(15)は二〇一一(平成二十三)年四月、同市内の騎西小に入学した。
双葉町の小学校に在籍したまま町外の学校へ通う区域外就学だった。大地さんより少し上の学年の子どもたちは転校生として加須市での小学校生活を始めた。事故当時まだ幼稚園児だった大地さんは新入学児として地元の子どもと一緒に入学。ごく自然に解け込み、すぐ友達もできた。しかし、加須の子どもとして生活しながら、双葉町を意識させられる出来事が続いた。
◇ ◇
二年生の夏だった。全国に避難していた双葉町の子どもがいわき市に集まり、宿泊して交流する行事に参加した。久しぶりに双葉町の子どもたちと再会し、水泳などをして楽しんだ。
行事の最後で町の小学校の校歌を参加者全員で歌うことになった。町内の小学校で過ごしていた三年生以上の児童は声高らかに校歌を歌った。しかし大地さんらは入学前に避難したため、双葉町の校歌を聞いたことがなく、当然歌えない。戸惑った大地さんは「騎西小の校歌を歌った」という。
また別の日は、双葉から避難している子どもに町の話題を紹介する印刷物が学校で配布された。昼休みになると地元の子どもたちが校庭で遊び回っている間、思い出にある双葉の風景を絵に描くように教室で促される時もあった。
◇ ◇
加須の子か、双葉の子か-。あいまいな思いの中で過ごす大地さんに大きな決断を迫られる時が来た。加須市に避難していた双葉町役場の機能が二〇一三年六月、いわき市に移ることになった。
父親の一彦さん=故人・享年五十四歳=、母親の明美さん(52)は古里双葉町に近い、いわき市に引っ越すつもりでいた。しかし大地さんは県内に戻るのを渋った。「仲がいい友達もできた。福島に帰りたくない」
一彦さんと明美さんは大地さんの気持ちを尊重し、加須に残る決断をした。二〇一六年六月、小中学校から近い場所に自宅を購入し、腰を落ち着けた。
大地さんは「加須の人たちは加須の子、双葉の子を分け隔てなく接してくれていた。でも、町の話題が書かれた印刷物を渡されたり、双葉の思い出の絵を描くようにいわれると、『あなたは加須の子どもではなく双葉の子どもだよ』と言われているような気がした」と振り返る。